2009年9月の小ネタ
マイベストゲーム@CEDEC 2009
先日、CEDEC 2009 というゲーム開発者のための会議で、 「インタラクション技術の最前線」と題して、 インタラクション技術に関する最近の研究動向を講演してきた。 その講演の冒頭、自己紹介をするくだりで、一応まともに職歴などのスライドを写した後、 せっかくのゲーム関係者の集まりなので、自分を知ってもらうにはこれを示すのが一番と、 「自己紹介(マイベストゲーム)」と題して自分のゲーム歴を披露したところ、 これが結構ウケた。ついでなのでそれをコメントつきでここに再掲。
- 「ゲイングランド」(SEGA, 1988)
- こんなページを作るくらいですから。
- 「M.U.L.E.」(Ozark Softscape, 1983)
- XBOX 360 かなんかで遊べるようにすりゃいいのに。
- 「Dungeon Master」(FTL Games, 1987)
- これもハマったよなぁ。
- 「NIGHT STRIKER」(TAITO, 1989)
- 「METAL BLACK」(TAITO, 1991)
- CD は擦り切れる程聴いた。
- 「タントアール」(SEGA, 1991)
- 対戦が熱いんだよね。
- 「アドバンスド大戦略」(SEGA, 1991)
- 正確には PS2 に移植されたものを遊んだのだけど、いやぁこれは面白かった。 お陰で仕事にかなり支障をきたした。
- 「ぷよぷよ(アーケード版)」(コンパイル・SEGA, 1993)
- ゲーメストの店で開催された店内イベントで4位入賞したのもいい思い出。
- 「スーパーマリオ64」(任天堂, 1996)
- いまだに3Dマリオの最高峰。
- 「ゼルダの伝説〜ムジュラの仮面」(任天堂, 2000)
- 時のオカリナは万人にお薦めだけど、ムジュラは作品として最高傑作。 「Groundhog day (邦題:恋はデジャ・ブ)」にも通ずる、深い深いゲーム。
- 「ボクと魔王」(ZENER WORKS・SCE, 2001)
- こちらもメタゲームとしてのテーマ性が深い、隠れた良品。
- 「ICO」(SCE, 2001)
- 振動コントローラ一つでキャラクターの背景や存在感を伝えきった、 史上最高の触覚フィードバックを持つ傑作。CEDEC 会場で上田文人さんをつかまえて、 いかに ICO の触覚フィードバックが素晴しいかについてとうとうと語ってしまった。 どうもすいません。
- 「からくり忍者ハグルマン」(GEARS, 1985)
- これに気がついた人は会場でいたかな?
あっこばちゃんのお別れの言葉
先日、親戚の伯母さんが亡くなった。 今年の夏に見付かった急な進行性の癌に蝕まれ、70歳でこの世を去ってしまった。 二男四女の兄弟の三女で、長女から四女まで揃って健在、 かしましく仲良くしていたところに突然の病の知らせで、 余命いくばくもないことが知れるにつれ親族は深い悲しみにおおわれた。
僕やいとこ連中からは「あきこおばちゃん」をつづめて「あっこばちゃん」と呼ばれていた彼女は、とてもひょうきんな人柄で、とにかく周囲に笑いを引き起こさずにはいられない人だった。 子供の頃たまに田舎に遊びに行ったときなど、まだ小さかった僕らをとっつかまえては、 風呂に入っている間に着替えを隠したり、中華レストランで人が箸を伸ばすタイミングで回転卓をずらしたりと、 いたずらの限りを尽していた。祖父の、つまりあっこばちゃんの実父の葬式の場においてすら、 あれやこれやの、昔の笑い話を披露して爆笑したかと思えば次の瞬間には泣き崩れ、 とにかく感情の豊な人だった。ついでに言うと、自分の美貌についても絶対の自信を持っていて、常に「須賀川一の美人は私」などと勝手な宣言をしていて、これに異議を唱えようもんならさらに苛烈ないたずら攻撃の対象にされるのだった。
そんな姿ばかり覚えていたから、亡くなる二週間前に見舞いに伺ったときには、 あまりの変貌ぶりに心底驚いてしまった。死期が近いことを自覚したあっこばちゃんは、 どんなお導きがあったか、浄土真宗の教えをうけ、ベッドで「歎異抄」を読み、 死を迎える準備を着々と進めていたのである。
「もう心の準備はできてんだ」
と、穏かな表情をして、須賀川訛りで語るあっこばちゃんの姿は、それまでのあっこばちゃんの狼藉ぶりを知っている身には衝撃だった。 あのあっこばちゃんが、思い残すことはない、とかまえて座っているのだから。 「これが65歳だったら、まだ生きたい、何で私が、と思ったかもしれないけど、 70ならまぁいいか、という気になれんだ」と語るあっこばちゃんはまるでお坊様のようだった。
子供の頃はさんざんいいようにあしらわれてきた復讐を果してやろうと乗りこんだ僕は、 軽口やへらず口を叩かないあっこばちゃんの姿に胸を衝かれ、 見舞いの間はおもしろくもないことをつっかえつっかえ話しかけるのが関の山だった。 もう一度遊びに来るよ、と声をかけ、病室を辞したが、その約束は果たせなかった。
そして葬儀の日。前日の通夜の席では、みなそれなりに思い出話に花を咲かせてはいたものの、 やはり普通の葬儀と同じように、静かに時間は過ぎていった。 あっこばちゃんと同じ血が流れているのか、普段から場をわきまえずについ冗談を口にしてしまう僕は生前の彼女を見習って、何か笑いを誘うようなことを言って、 葬儀の場を楽しくさせよう、賑やかにしようと思うのだが、どうしても言葉が出ない。 いよいよ最後のお別れという段になっても、誰も冗談を口にしない。 あっこばちゃんも黙したままだ。
「あっこばちゃんがそうしてると、お葬式が静かだよ」
僕は最後のお別れにそう声をかけた。
そのすぐ後のことである。
告別式までの時間に、葬儀委員長を務めていた親戚の伯父さんが、 さっきの僕の言葉を聞いてか聞かずか、こんな事を僕に言ってきた。
「あのね、実はあっこちゃんとこに見舞いに行ったときにね、最後の挨拶で皆に伝えて欲しい言葉があるって、預ってる言葉があるんだよ」
今は秘密だから、とそれがどんな言葉だったかは教えてくれなかったが、 あの、悟りきったような表情をしていた伯母さんが託した言葉である。 それも最後のお別れの挨拶として伝えたいという。お世話になった人々への感謝の言葉だろうか、 歎異抄からの言葉だろうか。最後に病室で見た姿で遺した言葉と思うと、 その重みを想像してしまう。
やがて告別式の時間となり、式は滞りなく進んでいった。 もうこれで、帰らぬ人となってしまったという実感も強くなっていく。 あっこばちゃんの人柄を映してか、多くの参列者が訪れ、まぶしいくらいに明るかった生前の姿を語り、別れを惜しんでいた。
そして喪主の言葉も終わり、葬儀委員長からの最後の挨拶となった。 お集まりいただきありがとうございました、といった挨拶の後に、いよいよ件の「別れの言葉」の話になった。
告別式に参列している弔問客を前に、伯父さんが静かに言った。「あっこちゃんから、 最後に皆さんに伝えていただきたいという言葉を預っております。」 曰く、死が近付いて、初めて実感したことがある。あの言葉は本当だったんだね、 と思ったことがある、と。
そして一呼吸おいて、伯父さんはその言葉を、 静かに耳を傾ける参列者に向って言った。
「美人薄命」
笑い声こそ立たなかったものの、生前のあっこばちゃんを知る者は皆、 吹き出しそうになり肩で笑っていた。
告別式の後の会食では、みなあの最後の言葉について、 「あっこばちゃんらしいね」と語りあった。あっこばちゃんに先立たれた、あっこばちゃんの姉達に至っては言ってみれば不美人通告を受けたようなもので、憤懣やる方ないご様子で「後で会ったらとっちめてやる」と息巻いていた。
あっこばちゃんは最期の最期に、 密かに用意していた素晴しいギャグを放ち、みんなの記憶に永遠に残った。