2009年10月の小ネタ
振動コントローラが示す存在感: インタラクションデザインの観点から
あらためて、ICO の素晴しさについて語っておこうと思う。
ICO は、ゲーム自体は良作とでも言うべき出来で、ストーリー・キャラクター・ビジュアル・ゲーム性が優れたバランスで作られたゲームである。 だが、それだけなら普通の良作として処理されるところなんだけど、 ある一つの要素により、僕の中では傑作の一つに昇華している。それは、 振動コントローラを使った、触覚フィードバックによるキャラクター描写にある。
ICO は、主人公の少年が城の中で出会った少女を連れて歩きながら、 城からの脱出を図るゲームである。少女は独立のキャラクターとしてゲームフィールドに存在しており、 放っておけばその場所に佇んだまま動かない。声をかけて自分の方に呼び寄せるか、 手をつないで一緒に動く必要がある。 この、手をつなぐところに、ちょっとした仕掛けが施してある。 手をつないだ瞬間に、コントローラが軽くブルッと震えるのだ。
そして、手をつないだまま歩いていて、大きめの段差を超えるときや急に走り出そうとしたときに、 やはりまたブルッと軽く震える。つまり、実際に手をつないでいる時に、 手を引っ張られる感覚を、振動コントローラで代替表現しているのである。
ここが、ICO の触覚フィードバックの優れた点だ。 自分のアクションに反応して振動を返すゲームは沢山あるが、 ICO においては、自分の行動はもう一人のキャラクターへ影響を及ぼし、それが、 自分とそのキャラクターとの接点である「手」へのフィードバックという形で表現されている。
つまりこの触覚フィードバックは、そのキャラクターの存在感の演出のために使われている。「手」を通して、プレイヤーはそのキャラクターの存在を感じることになるのだ。
主人公と行動をともにするこの少女が、一体どんなキャラクターで、どうして主人公はこの少女を守りながら行動しなければいけないのかは、 ゲームの説明書でも、ゲーム中のセリフでも、ほとんどまったく語られていない。 でも ICO をプレイしていると、プレイヤーは自然にこの少女が主人公にとって次第に大切な存在となり、守らねばならない人であるということを理解するようになる。 少女がそうした存在であるということを、コントーラの振動だけで語っているのだ。
よくあるゲームでは、主人公のゲーム内での目的、例えば国を守るとかさらわれた姫を救うといったものは、 「設定」としてプレーヤーに一方的に押しつけられる。主人公にとってその国がどういう重みを持つのか、 その姫がどれほど大切な存在か、といった関係性は「ストーリー」として前もって語られるか、 ゲーム内のキャラクターのセリフを通して説明されるに過ぎない。 演出に気を使ったゲームだと、イベントで主人公の村を敵の親玉が襲ったりして、 主人公が親玉に対して抱く「べき」感情 (大切な村を破壊した→憎い) をプレーヤーに体験させるんだけど、今度はその村が主人公にとってどれ程大切だったかを、 別にまた説明しなければならない。
例えば、ICO と同じ上田文人氏作のゲーム「ワンダと巨像」の方では、 主人公が大切にしている女性はゲーム開始直後からゲームフィールド内にずっと存在しているのだが、 その女性が大切な存在であることはストーリーやセリフで、文字情報としては語られるものの、 結局最後までピクリとも動かず、主人公との関係性をうかがわせる要素が提供されないため、 何故その女性が大切なのかは、終始わからない。 僕が「ワンダと巨像」にいまひとつのめり込めなかったのは、 何でゲームフィールドを駆けずり回って巨像を倒して回り、その女性のために奔走しなければならないのか、 釈然としないままエンディングまで進まねばならないからでもある。
その点で、プレーヤーが自分で行動して関係性を獲得できる ICO は、 少女の存在感を強烈に与えることに成功している。プレイステーションのコントローラから伝わるフィードバックは単なる振動以上のものではなく、 リアルな感触ではないけれど、自分の行動に対してのキャラクターからのフィードバックを返すことで、 強烈な存在感を生み出している。実際、走ったところでペナルティがある訳でもないのに、 少女の手をつないでいる間は走らずに歩く、というプレーヤーが沢山いるのだ。
ゲーム機での映像表現の伸びが鈍化してきている今、 リアリティ・描写の意味を考え直す意味で、何度でも見直されるべきゲームだと思う。 ベスト版も出ているので(amazon)、是非遊んでみて欲しい。
思いつき: マクスウェルの悪魔と SKK辞書
自分の tweet を振り返ってネタ拾いしてみました。
「マクスウェルの悪魔」という、熱力学・情報学に関するパラドクスがありますが、 都筑卓司さんの著書 (amazon) の時にはブラウン運動の問題として、 パウンドストーンの本 (amazon) の時点では情報の取得に必要なコストの問題として、 それぞれ解決が試みられていましたが、最近ではこれは「情報の消去のためのコスト」という観点から解決がなされています。 つまり、覚えている情報を忘れることにコストがかかるので、マクスウェルの悪魔が生み出すエネルギーはそのコストで相殺される、という主張です。 すでにある情報を消去するのにコストがかかるというのはなかなか不思議な感じがしますが、 情報の「リセット」にエネルギーを要すると考えれば、少し納得することができます。
ここで、情報は取得・蓄積するよりも消去する方が大変、という意味で思い出すのは、 Wikipedia のような、誰でも簡単に情報を付与することができるという Web 上のシステム。 誰でも簡単に投稿できるために記事は増える一方で、明らかに不要と思われる項目の削除には、 諸々の手続きが必要なためそう簡単には項目を削除することができず、 なかば放置されているような項目が沢山ある、という状況。 似たような状況として、SKK というかな漢字変換システムにおいて運営されている、 誰でもエントリを追加できる公開変換辞書プロジェクトも挙げられるでしょう。 こちらも、エントリは誰でも追加できる一方で、明らかな誤字やこれはさすがにわざわざ登録しなくてもいいでしょうというマイナー過ぎる項目については、 それを削除するにあたってもちょっとした議論を必要としており、 やはり消去の方が面倒くさいという状況になっています。
マクスウェルの悪魔と Wikipedia に本質的なつながりがあるかどうかはともかく、 ちょっと面白い共通項があるなぁ、と思っています。
ビクトリアの Fairmont Empress でアライグマを見た
先日、UIST 2009 参加のため、カナダのビクトリアに行っていました。 これがなんとも風情のいい港町で、たっぷり堪能してきました。 しかも、会議の開催場所が Fairmont Empress という素敵さ。たっぷり堪能してきました。
思えば 1998年に初めて参加した UIST '98 も、サンフランシスコの Fairmont Hotel が会場だった。 もっともあの時は Fairmont Hotel には泊まらず、5ブロック程離れた安宿から毎朝通っていたが。 あの時、朝のセッション後のコーヒーブレイクで振る舞われたベーグルが人生初のベーグルで、 それ以来病みつきになったのだった。さすがに Fairmont のベーグルは一級品だったと見えて、 日本ではなかなかあの味には出会えないのだが。
夜にちょっとホテル前を散歩していたら、二匹のアライグマを発見。
アライグマの鳴き声というのを初めて聞いた。
デジタルコンテンツ EXPO 2009 で展示してました
日曜日まで、日本科学未来館で開催されていたデジタルコンテンツ EXPO 2009 で、 PAC-PAC と PhotoelasticTouch の展示をしていました。NHK「おはよう日本」や日本テレビ「ズームイン!!SUPER」で紹介されたこともあり、来場者も多数。 非常に反響の大きかった展示でした。1000部用意したチラシも最終日には無くなり、 まずまず多くの方々に興味を持っていただけたようです。
特に「ズームイン!!」の方は「進化するタッチ機能」という観点で、 アップルのマジックマウスや Windows 7 を引き合いにしながら、 触感に関連した展示を集中的に紹介するという、こちらとしては願ったりの内容。 この分野への注目を感じます。
DCEXPO 2009 での河口洋一郎
河口洋一郎といえば、かつてはあの独特の CG 表現で評価を集めたものだが、 今回の DCEXPO 2009 での河口洋一郎は本当にひどかった。 山本寛斎とのトークではただの昔話に終始し、「あんときは凄かったね〜」 的発言しかなかった。宮本茂の講演ではもっと酷かったらしく、 「僕の話もさせて!」と、自分の仕事の話を勝手に始めるなどしたそうだ。
宮本茂の講演がどれ程貴重なものか、わかっているのだろうか。 もしかしたら彼の中では「俺もあんたも世界的クリエイター」という意識だったのかもしれないが、 クリエイター同士の優劣は関係ないとしても、人前で話をする機会の貴重さという意味では、 圧倒的に観客は宮本茂の話の方を聞きたいのだ。それを彼は邪魔した。
宮本茂は今もって現役で、世の中に面白いものを次から次へと送り出している。 それ故に滅多に人前に出る機会のない彼と同じ部屋にいる時間はとても希少で、 一言々々が渇望の対象だ。あの場で誰が河口洋一郎の昔話なぞ聞きたいものか。 彼はいつまでも SAKE パーティで昔からのお友達に囲まれて酔ってないで、少しネット上での講演の反響を調べた方がいい。