2009年4月の小ネタ

『読んでいない本について堂々と語る方法』 [id]

Amazon で買い物をしていたら推薦商品として表示されたのがこの本。

『読んでいない本について堂々と語る方法』(amazon)

題名を見て、迷わず購入ですよ。ジャケ買い。

この題名を見て真っ先に思い出したのは僕が学部生の頃に文学論だか何だったかの講義でドストエフスキーの『白痴』についての読書レポートを、『白痴』をほとんど読まずに書いた事だった。といってもよくある手である、解説のまる写しとか適当な副読書にあたったとかではなく、提出日の前日あたりに冒頭百ページ余を読んだ後、その百ページから得た知識のみを駆使してあとは想像を膨らませて書いたのだった。幸い、『白痴』の冒頭はロシア文学お得意の社交シーンで、様々な登場人物が入れ代わり立ち代わり現われては主人公と会話を交していくので、想像の材料は豊富に揃っている。確かあのレポートでは、主人公であるムイシュキン公爵が割と素直な物言いをするのに対し、彼の周囲の貴族連中がやたらと謙遜する言い方をすることを指摘し、その点によりかかって後は色々と適当に論を並べるという作戦に出たのだった。「その後の彼等の身にふりかかる事件や人間関係が、冒頭の会話ですでに暗示されている」とか何とか述べたのだが、もちろんその後彼等に何が起きて人間関係がどう変化したかなんてのは知らずに書いたし、今でも知らないままだ。

あんなレポートでも一応単位は貰えたし点も良かったので、件の作戦は十分に有効だったということなのだろうが、そんな訳で「本を読まずに語る方法」についてはすでに実践経験があったので興味を持ったのだった。

この本では、世の中においていかに多くの人が、読んだことがなかったりパラパラと流し読み程度しかしたことがない本について語っているか、という問題を取り上げ、そしてそれを著者のバイヤールはさらりと肯定する。こんなに本が世に溢れていてはじっくり目を通している余裕はない、本の内容に接近し過ぎることはその本からの影響から免れることを難しくする、といった理由に加えて、読書およびその結果としての知識の蓄積およびその本に対して評価を下すという行為そのものが、対象となる本を読んだか読んでいないかとはほとんど無関係である、という結論を下しているのだ。

いくらなんでもそこまで言うか、と思いながら読み進めていたのだけど、文中、エーコの『薔薇の名前』の結末について言及する箇所で「修道僧たちはやっとのことで文書館を消失から救う」と書いてある箇所を読み流してしまったことを著者自らが後の章で指摘するまで気がつかなかったりするに当たって、結局読んだからといってその内容すべてを諳じている訳でもないし、自分の心の内にある本の体系の中にその断片が分類してしまわれているに過ぎないという著者の主張をまんまと追認する羽目に陥いったのである。

それに、書評においてもいまや本の中身それ自体を独立に論じるようなものは少ない。むしろその本の著者の出自や背景、出版状況などについての言及の方が重要だと思われているくらいだ。遠藤周作の著作について論じるときに「キリスト教の影響」などと述べれば「そりゃ本人が敬虔なキリスト教信者で、長年キリスト教をテーマに書いているんだから当然だ」という議論になるだろう。本そのものの内容も結局はその本が世界のどこに在るかを示す上での、一つの要素にしか過ぎないということだ。

世の中、あるいは自分の中におけるそれぞれの本の占める位置は、本の中身によって定まっているのではなく本同士の関係によって決まるという、ソシュールの言語理論を本に当てはめたような説明もなされている。まぁここではその理屈自体は著者本人もそう重きを置いてはいまいが、ただ ELIZA やその他人工無能会話システムの例が示すように、会話をある程度それらしく成立させるためには、言葉そのものの意味を機械は理解している必要がない。それと同じように、本をネタに会話を交すためであれば、本の内容については知悉している必要はなくて、その本が世の中でどう位置づけられいるかさえ知っていればよい、というのは非常に面白い見解だ。

2009.4.15

読書レポートの書き方について [id]

ちなみに、前の小ネタに関連してですが、学生レポートの採点をする側になってみるとよくわかるのですが、解説や副読書の丸写しって、一発でバレるので、学生の皆様方におかれましては注意されたし。必ず、同じ内容のレポートが複数見付かるので。ちょっと言い回し変えたくらいじゃ何の目くらましにもなりませんよ。

一つお薦めするのは、それこそ前の小ネタに書いた僕がやったやり方のように、一つ小さなテーマを抽出して、それを元に話を膨らませるという方法。ここで相手 (採点者) に面白がって読んでもらうためには、以下の点を踏まえるとよいようです。

  • 選ぶテーマは小さ過ぎず、大き過ぎず。一つの小さな事件や副エピソードを取り上げるのが丁度よいくらい
  • 難しい、抽象的なことを述べない
  • 自分が経験した (相手が知らない) 具体的なことを引き合いに出して論じる

専門課程に進む人のための講義だとさすがに通用しないかもしれませんが、教養課程のレポートくらいなら、これくらいの方が読む方もきっと楽でしょう。大きな大学の教員だと百や二百のレポートを採点のために読む訳ですから、同じような無内容の大言壮語レポートよりかは、はるかに面白く読んでもらえます。

ちなみに上に書いた、レポートを面白くするための要点は、清水義範の『作文ダイキライ』(amazon)や『大人のための作文道場』(amazon)で挙げられていたものを元にしているのだが、これらの本の主張は作文を読む側としてとても納得できる。特に前者は小学生向けに書かれた連載をまとめたもので、要点が平易な言葉でまとめられており、ついでに小学生の作文を久しぶりに読む機会ともなるのでとてもオススメなのだけど、あいにくそこらの本屋では入手しにくい模様。子供に作文を教えるためのテキストとして、『わが子に教える作文教室』(amazon)を新しく出しているようなので、こちらの方が新しい分よいかもしれない。

2009.4.16

文庫版『國語元年』読了 [id]

昔 NHK のテレビドラマで『國語元年』というのがあった。舞台は明治初期、日本各地から人が集まっていて多彩なお国言葉が飛び交う家の主が、国命を受けて全国統一話し言葉制定を試みる、というお話。井上ひさしの脚本で、厄介な仕事を引き受けた主人公を川谷拓三が好演していた。ところがこのドラマ、途中の何回かだけ観ていたので、詳しい筋がわからない。昔からテレビの連続ものを最初から最後まで観るということができなかった。唯一放映時に最後まで観たことがあるのは、やはり井上ひさし原作・川谷拓三主演の「月なきみそらの天坊一座」くらいだろうか。

ところがふと検索してみたら、なんとドラマが DVD-BOX になっている (amazon)ではないの! とはいうもののそれなりの値段はするので、中公文庫版(amazon)をかわりに買って読んで、長年の疑問が氷解した。いやー、こういう始まりで、こういう終わりだったんだね。

がしかし、テレビドラマ版にあった場面がいくつか文庫版には書かれていない。鮮明に覚えているのは「ぶぶ漬け」の意味を主人公南郷家の使用人があれこれ推測する場面なのだが、これが文庫版にはない。

いやそれどころかですね、僕の記憶では主人公南郷清之輔はですね、金田一京助のような国語学者だったんですよ。川谷拓三が学者を演じるというそのギャップまで含めて、なんて面白いドラマなんだと思い、当時観ることのなかった回に想いを馳せ、あれやこれやと結末を想像していたんだけど、あれ全部パァですか。困ったなぁ、本家本元の井上ひさし版、十分面白いんだけど、その無駄な空想があったせいで、今ひとつ釈然としないんだよなぁ。そういや同じようなことが、筒井康隆の『玄笑地帯』(amazon) の「裏声で歌へますか君が代」にも書いてあったなぁ。

2009.4.29

『残像に口紅を』読了 [id]

『國語元年』と一緒に買った、筒井康隆『残像に口紅を』(amazon) も読了。奇しくも両方とも言葉に関する小説。こちらもとても面白かった。小説に使える字 (性格には音) が段々使えなくなっていき、最後にはすべての字が消滅していく、というもの。主人公が小説内で体験する「喪失感」を、読者たる自分がここまで生々しく追体験できる小説はなかなかないと思う。

それはそれとして、この小説の執筆にワープロを用い、使えなくなった字のキーにはシールを貼って区別したそうだ。どこだったかには「画鋲をさかさまにして貼りつけた」と誇張して書いていたんだけど、そこまでしなくとも今なら「Typetrace」や「Typeright」なんてので、だいぶ快適に執筆できるだろう。

2009.4.30

「全国統一話し言葉制定」と「共通プラグイン仕様策定」とに共通する難しさ [id]

最近また EffecTV 絡みでの解説記事を書いており、それに関連してPiksel における LiViDO の仕様策定の事をつらつらと思い出していたら、ふとあの、アプリケーション間で共通のプラグイン仕様策定作業の大変さと、読んだばかりの『國語元年』における、「全国統一話し言葉」制定作業の過程が実によく似ていることに気がついた。

LiViDO でとにかく大変だったのが、共通仕様に盛り込まれるべき要求の多さと、その取捨選択だった。様々なアプリケーションの開発者が集まって話をしていたのだけど、みなそれぞれが自分の書いたアプリケーション用に独自プラグインの仕様をすでに持っていて、それは当然その必要があって書かれている訳だからみんなその要求を共通プラグインにも盛り込みたい。それがまた多様なものだから、あっという間に仕様が膨れ上がってしまった。当初、いくら多様といっても共通する部分も多いだろうからそこは綺麗にまとめて、残った部分はそれに付け足していけばどうにかなるだろうとたかをくくっていたのだが、使っている GUI のツールキットはバラバラだわ、フレームレートの概念がアプリケーション間で違っているわ、果てはガベージコレクタの実装が必要になると言い出す人が出るわで、とても収拾がつく状態ではなくなっていった。じゃぁってんで、多数ある独自プラグイン仕様をひとつ選んでそれをベースにしよう、という案も出たりしたが、それでアプリケーション間の溝が埋まる訳でもなく、結局中途半端な折衷案で落ち着いたものの、今となってはあまり有用なものではなくなってしまった。

「全国統一話し言葉」策定を命じられた南郷清之輔の家においても、統一語の土台は薩摩弁であるべきだ、いや長州弁だ、江戸山の手言葉だと、各国言葉間での綱引きはされるし、折衷案の策定ではやれどこそこの言葉が多過ぎるだの、薩摩弁の扱いがひどいだのと、やはりそれぞれの間での衝突が絶えない。みんな自分の言葉に愛着があるし、この上新しい言葉に切り替えるのも大変だということがわかっているから、なんとかして自分の言葉を一言でも多く統一語に盛り込もうとするのだ。これ、まさしく共通仕様策定時にどこでも見られる光景ではあるまいか。言語と言えばプログラミング言語仕様の策定でも似たりよったりの光景があったに違いない。 Common LISP なんぞは名前からして真に「統一」言語ではないか。

ま、この件は「似てるなー」以上の何かが生まれるようなものではないんだけど、無理矢理にでも教訓を引き出そうと思えば、双方向へ展開することができるだろう。全国統一話し言葉を国家で人工的に作り出そうとするのは、 Ada を思い起こさせる。委員会で集まって国家的決定版を作ろうとしたところで、結局世に広まったのは、UNIX の普及と同期して世に広まっていった C だったし、世につれて柔軟に変化して今も生き存えている。国で「正しい言葉」を作ったところでそれはある時代のある瞬間での正しさでしかなく、しかも策定し終わった頃にはすでに死にかけている、ということになりかねない。

一方、言語やプラグインの仕様策定でも同じようなことが言えよう。『國語元年』では最後に会津藩出身の元浪人が清之輔宛にしたためた手紙でこう語られている。

万人の使用する言葉を、個人の力で改革せんとするはもともと不可能事にて候。万人のものは万人の力を集めて改革するが最上の策に御座候。そのためには一人一人が己が言葉の質を僅かでも高めて行く他、手段は一切これあるまじと思い居り候。己が言葉の質を僅かでも高めたる日本人が千人寄り、万人集えば、やがてそこに理想の全国統一話し言葉が自然に誕生するは、理の当然に御座候。

もちろんそんなのんびりとした策定では到底共通仕様なんぞは策定できっこないので上記はあくまでも話し言葉のことではあるが、しかし話し言葉の変化と融合のスピードは、人々の移動が活発化しまた放送網が整備されたことで格段に速くなった。共通仕様策定もあるいは、言語の変化モデルに習ったやり方が、あるいはあるかもしれない。そのためにも、まずは自分の書いているアプリケーションの質を高めていくことは、決してマイナスにはなるまい。ま、もっともこの場合の「質」とは何ぞや、ということにはなるんだが。

2009.4.30