2009年8月の小ネタ
SIGGRAPH に行ってきました
今月頭は SIGGRAPH 2009 に行ってました。E-tech での発表があったのですが、例によって土壇場まで準備が終わらず、 やきもきさせられました。それでも途中から学生達もデモ展示に慣れてきたので、 彼等は放置して夜のニューオリンズに繰り出してジャズやブルースやらを堪能してきたのではありますが。
しかし、その名も高きバーボン通りといえど、今となってはロックやらテクノやら、 だいぶエレクトロニカルな感じなんですな。 現地に行くまではどこを見回しても紅白縞模様の服を着込んだデキシーランドバンドや、 ラグタイムで人々が跳ね回っている光景を想像していたのだけど、 時代の趨勢という奴か、若い観光客をあて込んでか、多くの店がズンドコズンドコと大音響の音を垂れ流していた。
そんな中で一番元気があってそれらしかったのは、バーボン通り入口付近に展開していた若きストリートバンドだったな。
Put-that-there のビデオがおかしすぎる
SIGGRAPH の話題が続くけど、1980 年の SIGGRAPH でデビュー、 伝説となったシステム "Put-that-there" のデモビデオが YouTube で観られるようになっていた。
Put-that-there というのは、コンピュータスクリーン上のオブジェクトを、 ジェスチャと音声認識を使って、あっちからこっちに移動させたり色を変えたりといった操作ができるもの。 ビデオを観ればわかる通り、相当古い代物。画像もクロマキー合成だし。 それでもちゃんと動いているのは素晴しいのだが、 しかし最後の最後で音声認識が失敗したとおぼしき場面で "Shit..." ってオイ。
さらにこの続編となるビデオではもっととんでもない結末が。
いやー、やはりデモビデオはかくありたいものですな。
libmario 構想
ちょっとした入力装置を作ったときに、そのデモの一環として、 これでスーパーマリオが遊べますよ! てな感じでアピールしたい場合があるのだけど、 そんな時に手軽に使えるマリオクローンはないものか。単にファミコンエミュレータとスーパーマリオの ROM イメージがあればいいというものではなくて、 例えば画面を傾けると重力の方向が変えられるとか、 画像認識技術と組合せた「全手動マリオ」みたいなことをしようと思うと、 ゲーム内部に手を入れる必要があるため、ソースコードから揃っている必要がある。
ざっとネットを見回してみると、こんな感じでオープンソースのマリオクローンは見付かる。
しかしどれもゲームとして完結しているものなので、独自の要素を追加したり、 一部の要素を取り除いたりするのはちょっと手間がかかりそうだ。
スーパーマリオのゲーム要素をうまく分割して、自由に組合せることができるようにすることはできないものか。 まぁ何をするにしても一から組み立て直すに近い作業は必要になるかもしれないけれども、 そうした言わば "libmario" があれば、日曜インタフェース研究者の手助けになるし、 面白いものを中高生でも簡単に作れるようになるかもしれない。
誰かひょいと作ってくれないかな…。
ダダマニア
わーい、とうとう「ダダマニア」(amazon)が届いた!
さっそく遊ぶ!
「ツモ!」
「ダダ一色!」 (鷲津牌入り)
ちなみにお尻の様子。
どうして JR の CM の時といい、ダダってこういう扱いなんだろう…。
ないから生まれるのか
ないから生まれるんだ。
中国人は道徳心が無いから儒教が生まれた。
日本人は勇気がないから武士道が生まれた。
アングロサクソンはずるいからフェアプレーの精神が生まれた。
以前「トンビエント」について書いたときに引き合いに出した、 「専攻分野反転の法則」なんかもそうだけど、それがないからこそ追い求めるのだ、 という論はなかなかの説得力がある。
であるならば、だ。オタク文化や萌えといったもの達は、日本人にいったい何が足りなかったから生まれてきたのだろうか。
もちろん、「ないから生まれた」論は何にでも当てはまるという訳ではないだろうし、 当てはまるような気がしてもそれが本当に主要因かどうかは疑わしいところもあるけど、 一つの思考実験としてとても面白いので、ちょっと考えてみた。 ヒントは迎山さんの tweet「SFアニメが充実したのはスターウォーズ作りたいけど実写じゃ無理だったからと思うから。」
もしかしてある時から日本人は、いや日本人の若者は、未来に生きる自分達の姿を想像し、 その容姿に自信が持てなかったのではないだろうか。
日本人がなべて自分達の容姿に自信を失ったということではないだろう。 阪東妻三郎でもいいし石原裕次郎でもいいんだが、その時代その時代に人を魅きつける映画スターはいた。 がしかし、SF 映画に出てくるヒーロー達はどうだろう。
スターウォーズに出てくるヒーロー・ヒロインはみんなしっかりと未来に生きていた。 ドロイドを修理するルークはくすぶりながらも宇宙を夢見て意気盛んな青年だったし、 宇宙一のポンコツ・ミレニアムファルコンのコックピットに収まったハン・ソロは快活そのものだった。レイアも、高貴な顔立ちをしながら銃を振り回すのはいかにも様になっていた。
ところが、そんな未来の映像に日本人が紛れ込むと、なんというか、実に頼りなく見える。 ここで別に「惑星大戦争」あたりの話をしようというのではなくて、 かといって「さよならジュピター」という訳でもないんだが、 未来の機械に囲まれたスクリーンの中の日本人に、当時の若い人達はものすごくガックリきたんじゃないだろうか。
それが、アニメなら、克服できる。容姿も立ち居振舞も思い通りだ。 「日本人」という設定を保ったままでも、髪の色だろうが身長だろうがいくらでも変えられる。 未来に生きる、躍動感ある日本人を創造できる。
さらに、自分の容姿に自信がない男は、萌えが救ってくれる。もしかしたら前掲の引用の中にあった「日本人は勇気がないから」というのも、そこに関わってくるかもしれない。 思えばその「勇気のなさ」を補うシステムは昔は色々あったのだが、 近代化とともにそれが失われてきたのを、萌えは代わりに補っているのかもしれない。 ただし、勇気を補うかわりに、勇気を出さなくても満足できるようにした、 という形でだが。
と、一応書いてみたけど、早速「じゃぁ宇宙戦艦ヤマトはどうなんだ」というツッコミが入りそうな、 穴だらけのお話になってしまった。やっぱり一つや二つの要因で語れるようなもんじゃないですよこういうのは。 とはいえ、実写映画に希望を見出せなかった要因の一つにはこれがあるんじゃないかなぁという気はやっぱりする。