2009年7月の小ネタ
Apple に感じる閉塞感
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これは僕の周囲だけかもわからないが、一部の先鋭的アーティストが最近、 Apple から離れ始めている。iPhone 解約した、Mac やめたい、などの声をチラホラと聞くようになってきた。 Apple 製品の品質が低下してきたとか魅力がなくなったという訳ではない。 どうやら、Apple 製品を使っていて不自由を感じることが増えてきたから、ということのようだ。
不自由な感じとはどんなものか。例えば iPod に曲を格納していつでも聴けるようにするには、iTunes を使う必要がある。 手元の MP3 ファイルを iPod に放り込むにはフォルダにそのファイルを放り込めばいいという訳には行かず、 iTunes にまず登録してから同期させなければならない。 iPod 内のファイルシステムは普通に OS からアクセスできるにも関わらず、だ。
この仕様については、そもそも疑問に思わない人もいるだろうし、 なんでそんなことを気にするのか、不思議に思う人も多いだろう。 iPod は音楽を聴くための機器だし、iTunes は楽曲管理のためのアプリケーションだ。 両方とも Apple が開発しているのだから、親和性は一番だ。 実のところ僕も手持ちの iPod は iTunes 経由で管理している。 iTunes の他の選択肢、例えば gtkpod や Amarok など、 が無い訳ではないのだが、iTunes もそこそこ出来が良いし、純正品だから面倒も少ないということで、 いくつかの欠点には目をつぶって使い続けている (以前は gtkpod を使っていたのだけど、iTunes Music Store を使うようになったので仕方なく iTunes に戻したという経緯)。
それでもなお、iTunes みたいな専用アプリケーションによる管理を嫌い、 フォルダにファイルを放り込むだけで簡単に使えるような環境を好む人達は確かに存在する。 もちろん僕だってできればそうしたいくらいだ。
彼等がそうした環境を好むのには様々な理由があるだろうが、 その根底に流れる信念は、 コンピュータは徹底して自由に扱えなければいけない、というものだ。
iPod は内部に普通のファイルシステムを持っている。すべての楽曲はファイルとして格納されている。 iPod のファイルシステムは本来 OS から普通にアクセスできる。
なら何で iPod の内部構造に自由にアクセスできないんだい?
何でファイルを放り込むだけで再生できるように作らないんだい?
iPod 内のフォルダに入っている MP3 ファイルを見付けてくれるでないし、 管理ファイルの詳細は伏せられているため自由にいじれるわけでもない。 コンピュータにおける自由の信念を持つ僕等は常日頃から自由にコンピュータを乗り回すことに慣れきっているので、 たまにこんな障害にぶち当たると、それがとても醜悪で邪なものとして目に映って仕方がない。
もっとも、これは「使いやすさ」の観点からは別の結論も出てくる。上で出てきたようなやり方は、 下手に作れば新しい楽曲は一々ドラッグして iPod のフォルダに放り込む操作をユーザーにやらせることになるし、 楽曲 DB の管理は破綻しかねない。あまりコンピュータを使い慣れない人にとってはむしろ害の多いインタフェースになるきらいがある。 だったらむしろ iTunes のみサポートする現在のやり方のほうが、 大多数の人にとっては便利だということになる。Apple が採ったのは事実そういうやり方だった。
この戦略はそのまま iPhone にも当てはまる。Jailbreak でもしない限り、 AppStore を介さずに iPhone に好きなアプリケーションをインストールすることはできない。 ソースコードが公開されているようなフリーソフトウェアであっても、 Apple の用意した枠組みを経ないと、自分が持っているコンピュータにアプリケーションひとつインストールすることができないなんて、そんなおかしなことがあるだろうか。
とはいえ、それは営利企業の一つの戦略として別段おかしいということはない。もしそれがコンピュータでなければ、 車だって家電製品だって、そこまで大きな自由を保証するようなものは少ないということは皆よく知っていて、 ここまで不平不満を持つことは無いだろう。
もしそれがコンピュータでなければ。
ところがコンピュータにおいては、自由であることが最も重要な資質の一つである。 フリーソフトウェア運動の祖、リチャード ストールマンが訴えたのも、 "Free as in freedom"、すなわちソフトウェアの自由であり、 自由なコンピュータ環境だった。 そもそもが、Apple Computer が Apple I を世に送り出したとき、 Apple I はコンピュータユーザに自由を約束するものだった。 Macintosh を世に送り出すときの、あの有名な "1984" の CM で訴えたのは何だったか。 昨今の Apple の姿勢がどうにもこうにも我慢ならないのは、 Apple I からはあまりにも隔ってしまった、現在の Apple 製品の不自由さだ。
とは言ったって、iPhone へのアプリケーションインストールを制限しているのはそれなりに理由があるだろう。端末自身のセキュリティの為だったり、回線キャリアの権益を守るという意味合いもあるだろう。それは分かる。だけど、それでもやっぱり iPhone の「自分のものではない」感覚はどうしても拭えない。必要とあれば極限まで迫った使い方をするような者には、納得できないデバイスなんだ。
そんな必要にかられるような人達の中に、アーティストがいる。 Apple 製品といえばアーティスト御用達というイメージもあるのだけど、 作品製作においてはしばしば、マシンが持つ機能の限界に触れるような使い方をしなければならない時がある。 かつての Mac、まだ Macintosh と名付けられていた頃の Mac は、 そうした限界作業にとても不向きなマシンだった (アプリケーションに割り当てるメモリ量を手作業で調整していた頃を思い出して欲しい。 とにかくアプリケーションが落ちたあの頃を)。 それが Darwin ベースの Mac OS X になって、かつてに比べれば格段に限界領域が拡げられ、 使いやすいインタフェースの支援もあるという素敵な環境に生まれ変わってから、 そこに多くの人々が舞い戻ったのだけど、Mac OS X の開放感に比べると、 他の Apple 製品の閉塞感は限界ハッカーにとっては息苦しい。
もっとも、Mac を離れてどこへ行くのか、という問題は依然残る。 Windows はこれまた Darwin に比べれば色々と閉塞感のある OS だし、 かといってアート・デザイン分野のアプリケーションの充実度を考えると、Linux においそれと移れるものではない。 多くのアーティストの収入を支える Web デザインの仕事は Linux ではまかなうのは辛いという事情もある。 結局は渋々ながらも Mac を使い続けるという選択しか残っていないのかもしれない。 (もちろん、これを期に「こっちの世界へいらっしゃい」と勧誘はしているけど)
それでも、Processing・Pure Data・SuperCollider・Blender といったソフトウェアや、Arduino 用開発環境など、 オープンな環境での開発は今や大きな流れになってきた。 いつまでも Mac が「アーティスト御用達」の看板を保ち続けられるものではない。
「ウミガメのスープ」は日本だけ?
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DS版「スローンとマクヘールの謎の物語」(amazon)を買ってみた。 いわゆる「ウミガメのスープ」ゲームのDS版で、提示された物語仕立ての問題に対し、 プレーヤーは自分で質問をぶつけていって正解に辿り着くことが求められるもの。 この、プレーヤーが質問する、という部分のインタフェースが気になったので買った訳なんですが。
実のところ問題が簡単過ぎて、一つも質問せずに正解に辿り着けるような問題が大半というものでした。インタフェースも、まぁこんなものかな、という感じ。 用意された単語群を適当に選択していくことで質問文を組み立てるので、 質問のバリエーションに乏しいのと、質問に対する答にかなりのヒントが盛り込まれているので、 あっという間に正解に辿り着いてしまう。
いろいろ問題を解いていて判ったのは、「ウミガメのスープ」という物語は、 格別に出来がよいんだな。物語の奥行がずっと深い。スローンとマクヘールの他の物語は、 大半が「頭の体操」レベルで、物語として浅いし拡がりもない。どうしてそんな事件に発展したんだろう、とか、その時の登場人物の心境はどうだったのだろう、というところまで気にさせるような引き込みがない。
「ウミガメのスープ」の良さについて、ネタバラシにならない程度に書くと、 まず話の導入部とその結末とが十分にかけ離れているので、その意外性に驚かされる。 また題材自体がいわば物語元型にのっとったもので、 フィクション・ノンフィクション問わず繰り返し語られてきたものであるということ。 その不気味さと後味の悪さから、時代を問わず人の興味をかき立てて、ずっと生き残ってきた題材なのだ。 だから結末に辿り着いたときに様々なイメージを想起させられる。それ故、物語に奥行きと拡がりを感じるのだろう。
そしてもう一つ重要なモチーフが隠れている。それは、「ウミガメのスープ」という名前にある。 この名前を聞くと、自動的に思い出すのが「偽ウミガメのスープ (mock turtle soup)」。 実在する料理の名前なんだけど、これがまさしく物語の真相とよく呼応している。 ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」に出てくる偽海亀なんかも思い起こされる。
かように、「ウミガメのスープ」は実に奥の深い物語となっているのだ…。
…と、ここで念のために調べてみたら、どうも英語圏ではこのパズルは「ウミガメのスープ (turtle soup)」ではなくて「アホウドリのスープ (albatross soup)」として知られているようだ?!
「アホウドリ」じゃ雰囲気が台無しだからウミガメにしたのかな。 誰が変えたか知らないが、キャロルまで引き合いに出したってのに、後半の考察が台無しじゃないか。
ちなみに、アホウドリはアホウドリで、漂流者の友とでもいうべき、 格好の食料源としても知られている。ジョン万次郎らが鳥島に漂着した際は、 手で簡単につかまえられるアホウドリを食べて飢えをしのいだと伝えられている。
人はなぜ投票所に行くのか
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昨日は東京都の都議選投票日だった。久しぶりの選挙だし、 引っ越ししてからは一度も行われていなかったから初めての投票所だ。 夕方5時頃に行ったんだけど、以前住んでいたところの投票所とはまたちょっと違った雰囲気ながらも (前は小学校の校内で、今回は区役所の出張所)、 町内の人が途切れなく投票所に集まってきているというあの感じは同じだった。 お祭りの時の駅前通りみたいに人が集ってエネルギーに溢れている感じとは違い、 静かに物事が進行している感じ。僕はこの雰囲気が好きだ。一時の熱狂ではなく、 向こう数年間の自分達の生活の行く末を、はかない重みでしかない一票ではあっても、 自分達で決めているんだぞ、という感覚。
レヴィット&ダブナーの「ヤバい経済学[増補改訂版]」(amazon) で、投票に行くのはミクロ経済学的には割に合わないという話が出てくる (pp. 295)。 コストの割に、一票の重みがほとんどゼロに等しいからだ。それじゃぁなんで人は投票所に行くのかについて、スイスの事例分析からこんなことが述べられている。 すなわち、人は投票所に行くことで、票を投じているところを他人に見られることで、 社会的に評価されたいという欲求を満たしているのではないか、と。
僕の場合、投票所に行くのは上に書いたような独特の雰囲気が楽しいから、というのがそれに加わるかもしれない。 たとえ自分の判断に自信が持てず、票の行く末に何の期待がないとしても、 その雰囲気を形成する一翼を担える、ということが正のインセンティブになっているような気がする。 スイスの事例の話で言えば、投票所にいるところを他人に見られたいという欲求を満たすためには、投票所に他の人達がいなければならない。 僕が投票所に赴いてその場所に居ることが、同じ町内の他の有権者が投票することのインセンティブを高めるというのであれば、それはそれで喜ばしいことではないか。
そんな雰囲気はまやかしだとか、投票することが政治を変えるなんて幻想だとか言われちゃうかもしれないけど、 そもそも民主主義そのものが、そうした幻想があることでなんとか成り立つような政治制度なんだから、 むしろ積極的に利用することを考えてもいいんじゃないかな。投票を棄権した人は、政策の結果がどう転んでも文句を言う権利を持てない。みんながそこそこの幸せを享受するためには、投票率は高いに越したことはないんだから。
バックギャモン世界選手権で日本人選手が優勝
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モンテカルロで開催されている、バックギャモン世界選手権で、 日本人プロプレイヤーの望月正行さんが優勝されました。おめでとうございます。日本人の優勝は初。歴史的快挙に祝杯を!
ちなみに決勝戦の様子は ustream.tv で放映されていたので、夜中までつい見入ってしまった。
XY プロッタって便利だよね
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手書きレポート200枚の提出を求められた学生が、その作業を厭い手書き風にレポートを書くための XY プロッタ式の機械を8ヶ月かけて作っちゃった、「【完成】全力でレポートを自動で書くロボットをつくってみた&松岡修造」というニコニコ動画にアップロードされていた素敵な本末転倒動画を観ていたら、 僕がいた学校のある化学教師の事を思い出した。
僕がいた学校で学期末に渡される成績表は、厚手の紙に罫線があらかじめ引かれていて、 教師がそのマス目に手書きで成績を表わす数字を埋めていくというものだった。 コンピュータ同好会の顧問であり成績管理も手製のプログラムでしていたその教師は当然その作業も自動化したかったのだけど、 当時の紙送り機構のついた普通のプリンタは紙送りの精度が高くない上に厚手の紙への印刷が難しかったので、 XY プロッタにやらせていたのだった。彼が担当したクラスだけ妙に成績表の数字が整っていたので、 事情を知らない親御さんはだいぶ不思議がったらしい。
そういえば、XY プロッタを使ったスキャナなんてのを作っていた先輩もいたなぁ。 ペン先に光センサと発光素子をつけて、紙の全領域を反射光の強さを読み取りながら走査するというもの。紙にサインペンで書いたような絵ならそれっぽくスキャンできていたはず。CandyFab なんかもそうだけど、 XY プロッタの機構はなにかと心をくすぐるものがある。
日本語プログラミング言語の必要性
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プログラミング言語はおおむね、英語の語彙を基調として設計される。 そのためか、「英語表記が、日本の初学者にとってプログラム習得の壁となっている。 日本語でプログラムできればもっといい筈だ」といった論を唱える人は多い。 それこそ「モシ〜ナラバ〜」式に日本語プログラミングを可能とする言語は、 ぴゅう太の頃からある訳だが、実際のところどうなんだろう。 僕自身は、プログラミング言語の語彙が英語ベースであることは障害にならず、 BASIC を入口に、あっという間にこの世界に慣れ親しんでしまったので、 壁を感じた覚えがまったくない。プログラミングをまったくわかっていなかったあの頃、 プログラミング言語が英語ベースであったことについてどう感じたかはもう思い出せない。
僕個人にとっては日本語プログラミング言語の必要性はまったくないので、 日本語プログラミング言語を使うことは永劫ないだろうが、 自分が必要としていないだけで世間では困っている人が多いのかもしれないし、 もしそれがプログラミング学習のハードルを下げる効果が本当にあるのであれば、 どんどん研究されて然るべきだとは思っている。ただ、その効果は自明なものではないと思っているので、 ちゃんと調査した結果がない限りは信用する気はない。
実のところ「日本語でプログラムが書ければ学習しやすいに違いない」という思い込みで作られた日本語プログラミング言語は山程提案されている (ここで「俺の好きな××をけなすとは許せない!」と思われるかもしれないけど、世間で知られている数以上に学術発表などの場で発表される日本語プログラミング言語が沢山あるのです。ここで取り上げいてるのはそれら人知れず消えていく運命の言語のことであり、貴方が好きなそれではありません、多分)だが、 どれもこれも根本的なところで思い違いをしているように思える。 特に、プログラムの記述がより自然言語に近付けば近付く程優れている、という思い込みはどうにかならないものか。 もしそれが真であるのなら、多くのプログラミング言語のベースとなっている英語を使って、 自然言語的にプログラムが書ける言語がもっと世界的に普及している筈だ、 というところに思い至っていない。(ここで COBOL を反例として出すようではいけない。COBOL の文法は確かに英語に近いが自然言語からは遠いし、初学者向けの教育用言語としてももはや使われていない)
そもそも自然言語に近い形でプログラムを書けることが、 書きやすさ・読みやすさにつながる、というところからしてすでに、 何かおかしなドグマに頭が侵されていやしないか。算数はなぜ、 記号を使った数式の記述を早い段階で教えているのか。それは「1足す2の結果に3をかけて…」と書くよりも、「(1+2)×3」と書いた方が圧倒的に読みやすく書きやすく、 以降の学習が効率良く進むからに他ならない。 それと同様で、いくら自然言語形式のプログラミング言語を教えたところで、 すぐにもっと効率のよい記述方式、すなわち記号や短かい単語をつなぎあわせる、 今日一般的な記述方式に切り替えることになる。その程度の使われ方しかしないのであれば、 記述用言語を日本語化するような小手先の改良で済ませず、Squeak EToys のような、テキストベースのプログラミング言語という形式にとらわれない大胆な試みの方が好感が持てる。その意味で、「言霊」の方向性は評価できる。
日本語プログラミング言語界においてさらになんだかなぁと思うのが、 ちょっと過剰な義憤にかられている人が結構いることなんだよね。 日本語入力環境の研究者にも多いんだけど、妙な思い込みを礎にして、 これを作ることで日本のコンピューティング環境は一変するに違いない、 とまで意気ごんでいたりするのが結構見られる。例えばたまたま見付けた 「日本語プログラミング言語、 およそ 20 年の歴史と今後(PDF)」という資料では、
これらの言語に対して、市場の反応は必ずしも良くはなかった。 (略)また、トロンプロジェクトがアメリカの圧力に屈して敗退するのと期を一にして内外の圧力もうけた。
日本語の論理性を否定する非論理的論難は、トロンプロジェクトを抑圧するために発展した文脈にあり、アメリカからの外交圧力と方向性が一致していた。
Mindは、研究者サイドからの誘いの多くを断ることによって論難を回避したために、作者の努力と相俟ってこの暗黒期をも唯一乗り切ることが出来たもののように見られる。
なんてことが書かれているのだが、一体どうして日本語プログラミング言語が外圧によって潰されたなどという妄想が出てくるのやら。この資料の著者は根本的にプログラミングというものが分かっていないのは他の資料からも伺える。 (「スタック・ベースの言語に『日本語プログラミング』を預ければ英語流のコンパイラ・インタープリタ向きに語順を入れ替えて渡すことができる」という一文は、 Mind からの発想だろうが、これを読んで笑わぬプログラマがいるだろうか)
プログラムの習得とは記述用言語の習得であり記述用言語学習の壁さえ取り払えば誰でもプログラムが書けるようになる、という誤解はいろんなところで見ることができる。 オブジェクト指向こそもっとも直感的なプログラミングパラダイムだ、これなら誰でもソフトウェアが書けるようになる…。 いやいや、UML なら誰でも書ける、UML をプログラミング言語に変換さえできれば誰でも高品質なソフトウェアが書けるようになる…。 いや、パターンだ、パターンを組み合わせさえすればソフトウェアの設計なんて誰にでもできるようになる…。といった感じで、その時その時の流行を取り上げて、 これこそがソロモンの指輪なりと扇動するおっちょこちょいのなんと多いことか。
しかしこうした論を展開する人は、はたしてプログラムを書ける人なのか、それに挫折した人なのか。後者だとしたら、どうしてその人の言う「〜さえすればプログラムが書ける!」という言葉を信じることができようか。