ゲームと記号:記号で描かれる世界

コンピュータゲームには記号的表現が不可欠だが、その「記号」という考え方になじんでもらうために書いたテキストシリーズ。本エッセイでは、ゲームと記号の関係のうち、「フィールド」「マップ」などと呼ばれる領域について取り上げる。

下図は、『ゼルダの伝説』(任天堂 1986)に登場する、岩のグラフィクスである。

これだけ取り出して見れば、左側が少し飛び出た形をした岩がそこにある、と受け止めるかもしれない。

しかし、ゲーム中でこの岩が配置されているフィールドの様子を見てみれば、そのような受け止め方をすることはもはやできない。

『記号論への招待』
池上嘉彦著(岩波書店, 1984)

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まったく同じ形状の岩が繰り返し並んでいる様子を見れば、たまたまあるいは故意に同じ形をした岩が並べられているのだ、ということを表わそうとしているのではないことはすぐにわかる。どこに行っても同じ岩しか見かけないし、どうやら同じ形状の岩が並べられたという必然性も感じられないからだ。かくして、プレイヤーはこのグラフィクスがその世界の有り様を忠実に写し取ったものではなく、実際にはそれとは異なる風景がそこにはあるのだということをすぐに了解する。個々の岩のグラフィクスは記号であり、ゲーム世界中での〈実際〉の姿の代替物である、ということはゲーム製作者とプレイヤーとの間での暗黙の了解となっている。同じように、緑色をした岩壁も、同じ模様が繰り返されているがこれも額面通り受け止めるのではなく、ここにはただ岩壁が続いているということなのだ、とぼかしてプレイヤーは解釈する。コンピュータゲームを始めたばかりの人はあるいはとまどうかもしれないが、やがてすぐにこうした解釈の約束事になじんでしまう。ゲームフィールドの設計における「お約束」については、『「透明な主人公」という類型』でも議論しているので参考にされたい。

このような、「記号」の扱いに関しては、「記号論」と呼ばれる学問領域が存在しており、古くから議論が重ねられている。入門書として、池上嘉彦『記号論への招待』を挙げておく†1

さて、こうした解像度の粗い記号的表現はながらくコンピュータゲームの主流にあった、というか、記号的表現なくしてそもそもコンピュータゲームは成り立たなかったのではあるが、コンピュータグラフィクスの表現能力向上に伴って少しずつ状況は変化している。画面上に並べられた図像を記号として解釈させるのではなく、図像をあるがままに受け止められるようなゲームも作られつつある。

『ゼルダの伝説』シリーズの最新作『ゼルダの伝説: ブレスオブザワイルド』は、非常に広い外マップを持ちつつ、その細部もしっかりと描き込まれている。先に挙げたゲームのようにプレイヤーが目にする図像を記号として解釈し、そこから〈実際〉の姿を想像する、というワンクッションを経ずとも、画面に表示されるグラフィクスがそのまま〈実際〉である、という受け止め方をすることができる程度のグラフィクスを実現している。

ところが、ゲーム世界を丹念に探検していくと、次第にその表現の綻びに目が行くようになる。

上図はゲーム世界中の、とある遺跡の壁に刻まれた紋章である。ゲーム中に詳しい説明はないものの、なにがしかの由緒を感じさせるデザインである。右側の葉のような部位が欠けているのは、そういうデザイン、ということではなく、風化の為であろうと想像できる。

しかし、このゲーム中、同じ紋章は他の遺跡にも見付けることができるのだが、そのどれもが、同じように欠けていることがわかる。

こうして、これらのグラフィクスは記号的表現であったことが次第に明らかになってくる。もしこれらが記号的表現ではないとするならば、この紋章を見付けては右側だけ壊して回っている存在を仮定せねばならないがこれはちょっと無理がある。それよりも、この紋章の壊れ方は、あくまでも「風化した遺跡」ということを記号的に表現するためのものでしかない、と考える方が合理的だ。となれば、ゲーム中で目にしてきた様々な風景もまた、記号的表現が多分に含まれていた、と考えるしかない。

もちろん、コンピュータゲームの性質上、こうした記号的表現を避けることは難しい。すべての場所で異なる紋章の欠け方をさせようとすれば、ゲームの製作過程で膨大な作業をせねばならないし、表現に必要なデータ量も膨れ上がる。製作コストを適切に収めるためには、どこかで表現の細密化を食い止めねばならない。

現代のゲームはこの観点から、なかなか繊細な表現を要求されることが分かる。プレイヤーはその目前にある風景を、実際の姿としてそのまま受け取めるべきなのか、記号として解釈するべきなのか。都度判断していたのでは頭が疲れてしまい、ゲームに没入するどころではなくなってしまうだろう。一目で「これは記号だ」と納得できる部分とそうではなくそれそのものを見て欲しい部分とを、識別しやすくする仕掛けが求められることになる。

例えば村に畑を配置するとして、その畑は記号なのかそうではないのか。記号でないのであれば、その畑の面積で本当に村人全員を養うに足るだけの食料が確保できるのか。あるいは外から食料を確保しているのだとすれば、それを購入するための資金源は村のどこにあるのか。そうした設定を詰めることを避け、畑を記号として表現するのであれば、どのようにすればそれが記号であることを一目で了解してもらえるのか。

こうしたことまでデザインするのが、現代のゲームに求められることなのである。†2

2017.7.10

†1
入門書を終えたら次のステップとして、ウンベルト・エーコ『記号論1』(amazon)『記号論2』(amazon)へと読み進めるとよいだろう。あの中世ミステリー大作『薔薇の名前』(amazon)の作者による学術書である。
†2
『ゼルダの伝説: ブレスオブザワイルド』の記号的表現については、雑感をブログにまとめたのでそちらもどうぞ。