Coming Out Simulator 日本語版: 翻訳ノート

この文書は、Coming Out Simulator 日本語版の翻訳過程についてのノートです。翻訳の難しさ、特にビデオゲームのメッセージを翻訳することについて、気付いたことを記しています。

英語表現全般

"half-truth"

本作を貫くテーマとして "half-truth" があるのですが、これがいきなりの難問です。調べた限りでは定訳がありません。「半真実」とか「半分真実」などと訳されている例が見付かりました。法律用語として使われることが多いためか、全般に硬い訳語が目立ちます。

試しに、中国語にはどのように訳されているのか、Wikipedia を調べてみると「片面真実」という項目が見付かりました。さすが漢字の母国だけあって、ピタッとくるうまい訳し方です。

ただ、これをそのまま持ってくると日本語としてはどうも座りが悪く、硬さもあります。仕方なく、「半分の真実」と、助詞を補うことで対処しましたが、"half-truth" の "half" は、厳密に「半分」であることを意図したものではないのですから、もっとよい訳し方があるような気がしています。

泣き声

劇中、何度かあるキャラクターが号泣する場面があります。このとき、吹き出しの中に、泣くときにあげる声が擬声語として示されるのですが、日本語に訳そうと思ってハタと気付くのが、日本語における泣き声表現の難しさでした。

原作の英語では "huu... huu..." "oww... oww..." "sniff..." といった表現が使われています。これらは特段、泣き声を写実的に表現するものではなく、慣用的な擬声語ではあるのですが、一応、実際の泣き声や鼻をすする音をそれなりに真似た表現になっています。

一方、日本語で相当する表現として真っ先に思いつくのは「しくしく」や「おいおい」なのですが、これらは泣き声を真似た擬声語というよりかは、「きらきら」とか、あるいは「ぶらぶら」といった擬態語あるいは擬容語に近いものであるように思います。実際、これらの語が吹き出しの中に現れるとおさまりの悪さを感じます。

もしこれが漫画であれば、これらの語は吹き出しの中ではなくキャラクターの脇に効果音として描かれる方が多いのではないでしょうか。そうした吹き出し内外での音の表現の使い分けについては、その道の専門家の判断を仰ぎたいところです。

ゲイ文化特有の言葉

題材が題材だけに、作中にはゲイ文化に特有のスラング(俗語)が沢山出てきます。そうした言葉はそのまま単語単位で直訳してしまうと意味が分からなくなりがちで、うまく日本語の俗語に変換することを目指す必要があります。

ただ、北米のゲイ文化で使われる言葉と対応関係にある日本語の俗語が見付からないこともしばしばです。会話の中で使われる俗語である以上、一言二言でスパッと簡潔に言い表わせるのが理想であり、言葉の意味や背景を長々と訳出する訳にはいきません。かといって無理にそれっぽい俗語に置き換えると、北米の若者達という元々のキャラクターから乖離した感じが出てしまいます。ここでは、苦しい訳になってしまった箇所に対して、補足説明をしたいと思います。

Flowers and rainbows and gay unicorn

日本語版では「お花と虹とユニコーン」とそのまま訳しています。「ゲイっぽさ」を揶揄するときに使われるシンボルとしてよく登場するものを並べたフレーズです。「虹」はゲイのシンボルカラーとしてよく使われるもので、1978年に Gilbert Baker によってデザインされた「レインボーフラッグ」が源流です†1。「ユニコーン」も、虹と関係が深いと考えられているためか、ゲイのシンボル的によく使われます†2

カップルの会話

作中、主人公カップルの仲睦まじい会話シーンがあります。日本語でそうした会話を表わそうとすると、つい男言葉と女言葉のやりとりとして表現してしまいそうになりますが、男性同性愛者同士でかつどちらも女性のように振る舞っているのではないため、そうする訳にはいきません。主人公の言葉使いをやや可愛いげに調整することでなんとかしてはみたのですが、その主人公も、パートナーと離れ自分の両親と会話するときはそれなりにトゲトゲしい言葉を使っているため、ギャップが大きくなり過ぎないように気を遣っています。

"Which chopstick is the spoon?"

これも本作の翻訳を通じて初めて知ったフレーズです。同性愛者カップルに対する「どっちが女(男)役なの?」という無神経な質問に対する回答としてよく使われるものだそうです。

直訳すると、「お箸のどっちがスプーンだと思う?」となります。2本の箸のそれぞれに明確な役割などなく、2本揃っていることに意味があるように、どっちが男役でどっちが女役、ということはない、というのがその真意です。

とても優れた表現だと思うのですが日本では耳慣れないため、どう訳すかちょっととまどいました。ただ、意図は通じやすいように思ったので、少し説明的なセリフに直すことで対処しています。

ネットスラング

主人公が作者と同じ1994年生まれだとするならば、2010年には16才。作者はその頃すでに Web ゲームの開発でネット界隈ではちょっとした有名人だったのですが、それを反映してか本作の主人公はネットスラングをよく使います。これらもまた、日本語に訳すのは苦労するところです。日本のプレイヤーに広く本作を遊んで欲しいという思惑もあり、通じやすいスラングに変換しているところもあります。

Redditing

"reddit" は北米ではよく知られるネット掲示板。これが動名詞化した "redditing" という言葉が使われるのですが、そのまま「レディッティング」としても意味は通じないでしょう。かといって「2ちゃんねる」に置き換えるのはやり過ぎ。それほど重要な場面ではないため、単に「ネットする」と訳出してあります。

Fork Me

作中に作者が登場して、本作のプログラムコードが公開されていることを紹介した後、こんなことを言います。

Howzabout a 'Fork Me' programming pun?

プログラミングの世界で "fork" というのは、元となっているプログラムから派生させた別のプログラムを作り出すことを指します。一方で、"Fork me!" と言えば、「私を突き刺して!」という意味になり、かなりセクシャルな意味を帯びることになります。上記のセリフはそれらをかけたジョークになっています。

こういうのもまた極めて訳しにくいのですが、幸いなことに日本語だと、プログラミングのことをよく「開発」といい、セクシャルな文脈では「開発」という言葉にまた別の意味がついてきますので、これを利用することにしました。

Text

英語圏だと "text" という語で、ショートメッセージサービス (SMS, ショートメール) などを使って短い情報を送る、という意味になります。世界中で、カジュアルなコミュニケーション手段として定着しているのですが、こと日本となるとピタッとくる短い語がありませんので、文脈に応じていろんな訳がなされます。本作では2010年頃という舞台設定を踏まえて「メール」にしていますが、いまどきであれば、日本のプレイヤーにとっては「LINE」と訳すのがピッタリくるでしょう。ただ、特定サービスに依存した訳し方はできれば避けたいところで、そうなるとまた悩ましいところです。「チャット」の方がまだいいかもしれません。

その他スラング

その他にも作中にはいろんなスラングが登場します。それらを訳すにあたって、そもそもまず意味が分からないということが多々ありました。そこらの英和辞典ではお目にかかれないものもしばしばです。

こんな時にとてもとても役に立つのが "Urban Dictionary" です。およそどんなスラングでもたいてい掲載されていますし、一つの語に数通りの解説が書かれていることもザラで、立体的に語の意味を汲み取ることができます。いっけん普通の言葉であっても urban dictionary で引いてみると裏の意味が書かれていたりするので、この種の翻訳作業に従事している方は、訳していてちょっとおかしいな、と思ったらすぐこれにあたってみることをお勧めします。

以下に、本作の翻訳作業中に出会った面白いスラングを紹介します。

Cougar and Manther

"cougar" は、普通の文脈であればピューマのような大型のネコ科肉食獣を指す言葉ですが、スラングとしては「若い男漁りをする熟女」のような意味を持ちます。"manther" の方はその男版で、"panther" (豹) と "man" の合成語です。元の言葉の雰囲気を少しでも残せるよう、前者については「肉食系女」としてみましたが、後者はいい言葉が見付からず、「エロおやじ」で妥協しました。

さらにはその後に "faguar" という、"fag" (男性同性愛者の蔑称) と "jaguar" の合成語からなる、"cougar" の男性同性愛者版も続くのですが、これは面白く訳そうとするのは諦めて、「ホモエロおやじ」としてあります。

Perky breasts

主人公の母親が、主人公に引き合わせようとしている女の子の容姿を評して言ったセリフの一つに "perky breasts" というのが出てきます。文脈からいって、"breasts" の方は胸のことを言っているのは間違いないのですが、"perky" の方は、辞書を引くと「元気のいい」「生意気な」といった意味が並んでいます。うーん、わかるような気もするが、はてどんな感じなのか…

こういう時は文字情報よりも画像情報の方が理解につながりそうなので、Google 画像検索で調べた方がよさそうです。という訳で、まずは "perky" で調べてみたところ…

うん、理解した

"perky" 一語でこの結果ですので、この形容詞がどんな受け止め方をされる言葉なのかが見えてきます。さらに、"perky breasts" で調べてみると、"perky" なものとそうでないものとの比較がされた図が(写真ではなく)いくつも見付かるので、なおよく理解できます†3

ここまでして調べてはいますが、これは母親のセリフなのであまり凝った訳し方をしても浮いてしまいます。話の流れとしては、主人公の気を惹こうとして若者っぽい言葉を選んだが故に踏み外した感じなのですが、日本だとそんな文脈で母親が「あの娘、ハリのあるおっぱいしてるわよ」みたいに言ったらどう見えるかなあ、と考えると、むしろ「胸が大きいのよ」くらいの方が逆に慣れないことを言ってる感じが出るように思ったのですが、いかがでしょうか。

ゲームテキスト翻訳の難しさ

最後に、全体を通じて感じた、ゲームテキストの翻訳における難しさについて記します。

これまで私は、あくまでもアマチュアの仕事としてですが、短編小説を訳したこともあれば、科学論文や解説記事といったノンフィクション、また講演録のような口語文についても経験がありますが、本作のような、メッセージ主体のゲームテキストを手がけたのはこれが初めてでした。

本作の場合、ゲーム中のプレイヤーの選択によってシナリオが分岐していきます。作中の出来事が、その後の選択によってその捉え方が変わっていくため、ある選択肢の翻訳を進めているときはこれでいいと思ったとしても、別の選択肢の翻訳をしてみるとどうもイマイチに思えてくる、なんてことがよくあります。

一般論ですが、例えば "run" という言葉は、日本語でいえば「走る」以外に「流れる」「経営する」といった意味が含まれますが、それらすべてが "run" の一言で言えてしまう。しかしそれを翻訳するときに、その後の展開次第でそれが「走る」の意味だったのか「経営する」の意味だったのかが変わってしまうのだとしたら、どう訳すべきか。ここに、選択肢のあるテキストを翻訳することの難しさがあります。

いま一つピンと来なければ、たとえば「すいません。」というセリフの後に、選択肢として

  1. 駅までの道を教えてください
  2. 借りてたもの無くしちゃいました
  3. 助かりました、ありがとう

があった場合に、「すいません」をどんな英語に訳すべきか、を考えてみてください。その難しさが伝わると思います。

おわりに

以上、翻訳にまつわる難しさについて述べてきました。しかしながら、ちょっと踏み込んだ翻訳をしてみようと調べ物をしていると色々な発見があり、より深く作品世界を堪能することができるのは大きな喜びでもあります。現代作品を訳せば今の言葉を、古典作品を訳せばその時代の言葉を、それも対象言語と日本語のそれぞれで、新しい知識を獲得することができます。ぜひ一度は取り組んでみることをお勧めします。

また、あらためてオリジナル版作者の Nicky Case に感謝いたします。

†1
Wikipedia 日本語版の記事を参照。より信頼できるものとしては、BBCの記事 "The history of the rainbow flag" を参照。
†2
"Why the unicorn has become the emblem for our times" The Guardian, 2017.10.15.
†3
念には念を入れて調べたところ、米TVドラマ "The Big Bang Theory" 内で "perky" が使われたシーンについての議論が見つかり、これが "perky" の境界条件を見定める上で大変参考になりました。