エッセイ

マルチタッチインタフェース考〜Apple vs. SAMSUNG 裁判に思う

Apple と SAMSUNG が争っている裁判では、「マルチタッチインタフェース」が一つの焦点になっている。iPhone 発表以降脚光を浴びた形になってはいるが、その研究は古くから連綿として続けられてきたものである。マルチタッチインタフェースの歴史を概観しながら、争点となっているジェスチャ入力の新規性について論じる。
2012.12.30

電子書籍ならでは、の本を読みたい

以前 Twitter で連続ツイートした「電子書籍で流行るもの」の再編集版。紙の本のイミテーションではない、電子書籍ならではの本はどのようなものが考えられるか、つれづれに綴ってみた。
2012.5.10

日本語プログラミング言語は必要か

日本語の語彙や文法に基いたプログラミング言語は本当にプログラミング初学者の学習を助けるのか? Processing の方がよっぽど学習の役に立つと思うのだが…
2011.11.23

「説明の道具」としての擬人化

なぜ迷信は広く受け入れられ、科学的な説明は疎まれるのか。その背景に「擬人化」があるのではないかと考え、社会的な振舞いに目ざとく反応する人間の認知の癖を手がかりに考察する。
2011.6.11

オブジェクト指向は「自然」じゃないよ

オブジェクト指向は、巷間よく言われるように、本当に世界の在り様をそのまま記述できる手法なのか。世界は「クラス」と「インスタンス」で捉えられるようなものなのか。ジョナサン・ワイナーのピューリッツア賞受賞作「フィンチの嘴」を手がかりに、進化論における「種」という概念のゆらぎと比べながら考察する。
2010.3.18

字の呪術性〜「神々の沈黙」と「白川静」

白川静が説く漢字の「呪術性」を、人間の意識はどこから生まれたかという難問に挑戦したジュリアン・ジェインズの著作「神々の沈黙」を通じて考える。すなわち、かつては字そのものが呪術の道具であり、人はそれを目にすることで霊感を得ていたのではないか。
2009.1.6

コンピュータ囲碁について、王銘琬の危惧

コンピュータ囲碁の進化は「モンテカルロ法」の導入により新時代に突入した。それまでの、人間が持つ知識をプログラム化するという手法から、コンピュータ独特の解法が人間を負かすようになり始めている。このままコンピュータが強くなっていった時に何が起きるか。やがて「何故このプログラムは強いのか」を、人間が理解することができなくなる事態が訪れるかもしれない。人工知能が産みの親である人類の能力を超える「シンギュラリティ」について、SF 作家のテッド・チャンの Nature 掲載小説を紹介しながら論じる。
2008.9.8