飛ぶ夢を見なくなってから

そういえば、空を飛ぶ夢を見なくなってからだいぶ経つ。

「空を飛ぶ夢」というと、爽快感とか自由、希望とか、はたまた奔放な性交(唐沢なをきが漫画で描いたように、どんな夢でもエロネタに結び付けられるものだ)といったものを想像されるかもしれないけど、僕がかつてよく見ていたのはそうしたものとはちょっと違って、なんとも評しがたいものだった。

※注意: これまた唐沢なをきが指摘するように、他人の夢の話は大抵面白くないものです。以下はそのことをご了承の上お読みください。

僕が小学生くらいの頃から繰り返して見ていた「空を飛ぶ夢」というのは、スーパーマンの如く大空を自由に飛び回ったりするようなものではなく、地面の上たかだか 10cm 程度の高さを、立った姿勢のまま、滑るように前に進める、という程度のものだった。

『ドラえもん』の設定で、足は常に地面から 3ミリほど浮いている、というのがあるが、ちょうどそのようなものだ。

ちょっと浮いた状態で、少し体を前に傾けると前進する。傾きを強くすると、どんどん速くなってゆく。それが楽しくてぐいぐい加速しながら滑っていくのだが、障害物か何かを避けようとした拍子にちょっと体が跳ね上がったりすると、地面からの反発が強くなって何度もバウンドする度に高度が上がってしまい、最後には制御不能になって落ちたところで目が覚める、というのがよくあるルーチンだった。なので、これはどちらかというと「高所から落ちる夢」のバリエーションであり、悪夢である。

ところが、ある日の夢でこれを完璧に制御する方法を発見してしまった。あまりに驚いたので書き残してあるのだが、飛行高度を制御する方法をいつの間にか修得し、高いところから落ちても衝撃を吸収して浮かび続け、さらには高度を稼いで『カリオストロの城』のルパンのように建物から建物へと足場をつたいながら跳んでいけるようになったのである。

ちょうど修論の研究内容に目処がつき始めた頃で、現実の不安が軽減されたことが夢に反映されたのだろうか、文字通り浮き足立った夢から、地に足の着いたとは言わないが落ち着いた夢に変化したということなのか、とも思ったが、それだと子供の頃から見続けていたという重みと、たかだか修論に目処がついた程度という重みとが釣り合わない。(実際、その目処はまったくの序の口でしかなかったことが後に明らかになる)

それはさておいても、もう一つ気にかかることがある。当時の記録に書いたように、この空中飛行術は次の夢に継承されて自由に空を飛び続けるのか、それともその先にさらなる難事が待ち受けるのか、あるいはこの設定はなかったことにされるのか、その後の展開を楽しみにしていたのだが、なんとこの日を境にして、空を飛ぶ夢をまったく見なくなってしまった。せっかくの飛行術の出番はまるでなく、それどころか落ちる夢すら見ることもなくなり、僕の夢から「跳躍」とか「落下」というモチーフがまるごと拭い去られてしまったようなのだ。

夢の中での殺人は、自分の持つ何かを殺してしまったことの現れである、というのは夢判断でよくある説だが、モチーフの消失は、はたしてどういった精神活動に結びつくのだろう。夢判断をあまり信頼しない僕ではあるが、この夢ばかりはどうにも気にかかって今に至っている。