コンピュータゲームにおける
「カッコよさ」の規範

UBI SOFT の期待の大作「Watch dogs」は、僕としてはとても許容できない内容だったということは別のところに書いたのだが、それはさておいて、Watch dogs をプレイしていてもう一点、本筋とは離れたところで疑問に思ったことがあった。

Watch dogs はシカゴを舞台にしたオープンワールドタイプのゲームで、シカゴの街並みをコンパクトに再現した中を車で走りながら進めていく。当然、敵勢力とのカーチェイスを映画さながらに楽しめるのが売りの一つなのだが、シカゴを舞台にしたカーチェイスといえば、忘れてならないのが映画「ブルースブラザーズ」のカーチェイスシーン。実際にシカゴ市内を封鎖してロケされたもので、シカゴという土地を活かし、高架下や地下道などでパトカーを何台も何台も潰しながらのスピード感あるカーチェイスを楽しめる、映画史に残るシーンである。追われる立場である主人公達が乗るのは、「ブルースモビール」と名付けられたダッジモナコの74年型警察仕様車。当然、これによく似た車がゲーム中に登場するものと期待していたのだが、残念ながらその期待は裏切られた。(ただし車種の違いさえ目を潰れば、ブルースブラザーズのチェイスシーンの雰囲気はとてもよく味わえるので、その点はとても嬉しかった)

もう一つ映画ネタでいうと、高架鉄道のある街でのカーチェイスとあらば、舞台は違うが映画「フレンチコネクション」が映画史に刻んだ、高架鉄道を車で追うシーンを見たかったのだが、これもゲーム中にはそのシーンがない。高架の上を走る鉄道を上目で追いながら、車を何度もぶつけつつ、通行人をギリギリで避けてゴミ箱をはねあげるあのシーンをゲーム中でも当然体験できるものと期待していたのだが。

この残念な経験を通して思ったのだが、もしかして、ゲーム製作の現場での、映画やアニメなどの先行メディアに対する憧れのようなものが、いまやまったく薄れてしまっているのではないだろうか。

コンピュータゲームはその黎明期の頃から、小説や漫画、そして映画やアニメで描かれてきた場面を、自分の体験としてインタラクティブに味わえる、という点をひとつの醍醐味としていた。過程も結末もあらかじめ定められた物語をなぞるだけというのがそれまでのメディアの制約だったのが、その過程を自らの操作によって進めていく(ときには失敗もする)ことで、実際に物語の主人公になったかのような体験ができるというのが、ゲームというメディアがもたらした進化であり、したがって、ゲームにおける場面設定や演出は、そうした先行メディアにおけるものを規範としてこれまで受け継いできたのである。

これはコンピュータゲームに限った話ではない。テーブルトークRPGの元祖「ダンジョンス&ドラゴンズ」(D&D)は、明確にトールキンの「指輪物語」の世界を追体験することを目的として設計されている。例えば指輪物語にはホビットやエルフ、ドワーフといった種族が登場し、それらの種族からの代表者がパーティを組んで困難な冒険に臨む。D&Dでのプレイはそれをそのまま踏襲する形で、多種族で集まってパーティを組むことが暗に仮定されている。それぞれの種族が得意とする技能を活かしてお互いを助け合うという指輪物語の世界観を受け継いでいるのだ。D&D以外のRPGにおいても、ファンタジーやSF、現代ものなど種類は数あれど、それぞれに規範となる世界観を先行メディアから受け継いでいる。物語を持ったゲームはその出自から、そうした規範の上に築かれているのである。

しかしいまやコンピュータゲームは映画を超えるメディアにまで成長した。開発にかける時間も人数も資金も、大作ハリウッド映画を超えるものが出始めている。映画は観ないけどゲームはやる、という人も今後増えていくだろう。それゆえ、今のゲームは規範として、映画やアニメではなく、ゲームそれ自身を参照するように変化しつつあるのかもしれない。

そうなると我々は次第に、「誰がもシビれたあのシーン」のような、共通の思い出としての場面やというものを共有しにくくなってきているのではないだろうか。というのも、映画であれば進行は常に定まっているから、同じ映画を観た人は同じ場面を観ていることになるのだが、ゲームの場合、ムービーシーンを除けば、どのような場面を観ていたかはプレイヤーによって異なってくる場合があるからだ。特に最近隆盛のオープンワールド型のゲームだと、もはやゲームワールド内のどこを移動し、どのような順番でシナリオを進行させたかすら不定となる。カメラワークもみな異なるものを観ているし、ゲームによっては周辺の情景や天候まで含めて、みな違った体験をしているのだ。

もっともこれは映画のような視覚体験に偏ったメディアへのノスタルジーから脱却できていないものの見方でもある。インタラクティブメディアとしてのゲームではそのかわり、主人公の周辺の様子であるとか、街の人の振舞いとか、敵との戦いといった、実際のインタラクションにもとづいた、個々人が自分の体験として記憶できる思い出がある。例えば第一作の「ドラゴンクエスト」の思い出を語れば、橋を渡った直後に出現する強いモンスターであるとか、ほうほうの体で宿屋に辿り着いたときの安堵感といったような、それまでの行動に根差したエピソードであるように。つまり、我々が共有するのは、視覚体験ではなく、行動の体験なのである。

それゆえ、これからのカッコよさの規範をもしコンピュータゲームが担っていくのだとすれば、それはきっと、「行動の規範」を中心としたものになっていく、ということを意味するだろう。

だからこそ、ちょっとした主人公の行動にも気を配ってゲームは設計されていて欲しいのだ。他所の家のタンスを漁ったり人の車から金をちょろまかすようなことをずっとやらされるようなのは、勘弁して欲しい。

それは、ゲームの次を担うメディアが登場したときに、規範として必ず参照されるのだから。

2014.9.9