思考実験「日本語の地図」

先日、オーストリア人の友人に聞いた話。以前に彼が来日して新宿あたりを観光して回っていたときのこと。まだ当時はどこででも携帯端末から Google Map にアクセスできるような時代ではなく、みんな地図を持って移動していたのだが、道に迷ってしまった。

彼は英語の地図を参照して現在地を把握しようとするのだが、あたりに英語表記の看板や目印はいっさいなく、しかし地図には英語でしか地名が記されていないから、照合のしようがない。しょうがないので、宿で貰った別の地図を拡げると、こちらには日本語が書かれているのだが今度はそれがその友人には読めない。それでも、なんとか日本語の文字を、読めないなりにただの図形として照合を試みて、なんとか看板に描かれた図形と合致するような図形を地図上に発見することができ、現在地を特定できた、とのことだった。

これを聞いて思ったのだが、状況としてはまさに「中国語の部屋」みたいなものだ。しかし中国語の部屋と比べると、この「日本語の地図」の状況の方は、同じように文字や文章がまったく理解できなくてもなんとか用は足せるという意味においては「中国語の部屋」と大して変わらないんだけど、「わからないなりに用が足せてよかったじゃん」と思う気持が中国語の部屋よりも強い。

似たような状況としては、レストランで外国語のメニューを渡されたとき、などと色々翻案することができようが、いずれにせよ、単に窓口で文が書かれた紙をやりとりするだけの「中国語の部屋」の状況と比べると、なんだか腑に落ちるような気がするのは、やはりそこに、言語のやりとりの後に生み出される結果があり、それを体験できるから、なんだろうか。

この「腑に落ちる」という感覚が本当に厄介で、体験が絡み始めると僕等はたやすく騙される。いってみれば僕等の仕事はいかに「腑に落ちない」ことを考え出すか、にかかっているんじゃないかと、最近は思ったりするのだ。