これからの「直感的」インタラクション

アメリカの特許商標庁が Apple に対して、特許番号7,844,915への最終拒絶理由を通知した。これはマルチタッチパネル上でのピンチイン/アウト入力によるズーム操作を含んだ特許であり、これで Apple の交渉力はやや減退したと考えられているものの、他の特許に絡んだ係争では Apple 有利の判決が出たり、一方で「角の丸いデザイン」については特許性を認められなかったりと、今後の展開はまだまだ定まらない†1†2

さて、前稿「マルチタッチインタフェース考〜Apple vs. SAMSUNG 裁判に思う」ではマルチタッチインタフェースの起源や歴史を追ってみたが、その末尾で、Waz 曰く "very small thing" であるところのピンチイン/アウト操作の「直感性」について取り上げ、その微妙な立ち位置について軽く触れた。本稿ではそのあたりをもう少し掘り下げて書いてみたい。

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今ではすっかりお馴染みになった、二本指による回転・拡大縮小の操作。これは力学的にはたいへん合理的な操作手法だ。先に進む前に、ピンチイン/アウトを含んだこの二本指操作の力学的な捉え方をちょっとおさらいしておこう。一本指なら上下左右の並進移動ができるが、こうした操作を「2自由度」と表わす。簡単に言えば、自由に操作できる度合いを示す概念で、タッチパネル上での一本指での操作は、「上下」の操作と「左右」の操作の二つの操作を同時にできるので「2自由度」となる。これが二本指になれば、2+2 = 4 自由度と数える。二本指で行える操作は、したがって最大で4自由度の操作まで同時に行うことができる。

自由度の数え方

ある図形を移動させ、回転し、さらに拡大または縮小する操作は、縦横の並進で2自由度、回転で1自由度、拡大/縮小で1自由度の、合計4自由度となる(下図参照)。ということは、これらの操作は、二本指でちょうど過不足なく行える操作であることがわかる。

並進・回転・拡縮で4自由度

単に4自由度の操作であれば、例えばスライダーを4本使っても実現することは可能であるが、その場合は縦横自由に動ける指先操作の自由度を有効利用できない。その点、力学的に見れば二本指によるこうした操作は、対象物を直接操作しているような感覚を与えることができ、かつ無駄なくスッキリとした実装であるといえる。だが、指先での操作はそんなにスッキリと記述できるほど単純なものではない。

そもそも、実際の物体を相手にして、二本の指で回転させるような操作をさせるのは、不自然というほどではないにしても、あまり見馴れない。

二点タッチによる回転操作を、本物の名刺相手にやってみた例

それよりも、一本の指先だけで、摩擦をかけながら指を回すようにして動かしたり、手のひら全体を使ったりと、様々な手の使い方をするだろう。

様々な回転操作。左から、四本指で押えながら・一本の指で少し力を入れて・名刺の端を押して

試しにお手持ちのスマートフォンやタブレット機器で、上の写真に見るような操作ができるかどうかやってみて欲しい。まずほとんどの機器で、三本以上の指を使った操作はほとんど対応していないし、指先を回す操作は認識すらしてもらえない。こう考えると、タッチパネル上での二本指による操作は、非常に限定された手の使い方しか許されない、制約の強い操作であることに納得していただけるだろう。

現在ではこうした操作にも対応できるようなタッチパネルインタフェースの開発が大学や企業の研究機関で進められている。例えば僕自身 SmartSkin を使ったインタフェースにおいて、手の縁を使って机の上のパンくずをかき集めるような操作を実現している。また、Microsfot Research の Xiang Cao らのグループは、さらに物理エンジンを効果的に使うことにより、タッチパネルに触れた指や手と、ディスプレイ上のオブジェクトとの物理的な作用をシミュレートして、あたかもそれらが机上に実在しているかのように扱えるインタフェースを提案している†3

手の縁を使って、画面上のアイコン群をまとめてかき集めるように操作している様子

この方向の研究はさらに、Kinect のような深度センサを用いて、より精細な物理シミュレーションにもとづいた仮想世界を構築するものまで出てきている。

ではこのノリで進展していったとして、目指すべきは、日常の物理世界の完璧な模倣なのだろうか。

例えば画面上には 3DCG で精密に模倣されたメカニカルなボタンが並び、それを力触覚フィードバックのあるパネル越しにカチリと押すべきなのか。スクロール操作は本当に巻物を巻くように行うべきなのか†4。デスクトップ上のアイコン群は、ちょっとクシャミをしたら飛んでいってしまい、後で片付けないといけないような、そんな日常的な現象を忠実に取り入れるべきだろうか†5。そもそも、現実世界をありのままに模倣するのであれば、拡大縮小という操作がまず実現できない。せいぜい虫メガネで対象を覗きこむくらいが関の山だろう。

はっきり言えば、現実の闇雲な模倣には何の意味もない。あるいはそれはわかりやすくとっつきやすいかもしれないが、その世界でできる事は、物理的な限界や制約にいちじるしく制限される。コンピュータの力を使う意味が減じてしまうのだ。コンピュータの中であれば、思いのままに大きさを変えたり、ある物体を突然消しさって別の場所に出現させたり、いくらでもコピーしたりすることもできる。最小限の操作で目的を達成できるように設計することもできるし、片手で操作しやすいように設計することもできる。そう、コンピュータ上でのインタフェース設計は、日常に縛られないし、縛られてはいけないのだ。

さて、あらためて二点タッチ操作について考えてみよう。二点タッチは日常的感覚から見れば明らかにいびつな操作だ。これをもって直感的と言うのは、本来から見ればおかしな話だが、論理的に考えれば4自由度の操作を4自由度のインタラクションで実現しており、その関係性はとてもストレートで、これ以上はもはや削れないほどにまで直接的に構築されている。言い方を変えれば、論理的に素直に導きだせるという合理性に支えられた、論理的「直感」性を持った操作を提供していると言えるのだ。

私はこの、論理的な直接さこそが、デジタル世界における「直感」を定義する一つの因子になると思っている。日常世界における直感とは、この物理世界に慣れた身体による、相手の振舞の予測であり、予測が当たることを「直感的」と言っていることに他ならない。しかしデジタル世界での出来事は、日常生活でつちかった経験だけでは予測できない。そこでは、デジタル世界特有の、余分を持たない数値情報で表現された振舞がある。その論理的な構成を見抜いた者にだけ、直感は訪れるのである。かつて多くのアプリケーションが、プログラマには使いやすいが、そうではない人にはほとんど使用不可能だったのは、プログラマがそうした目を持っており、そのアプリを使う人もそうした目を持っていることを前提として作られていたからに他ならない†6。そして、デジタル機器が日常になり、それを使いこなす人々が増えるにつれ、それを見抜く目を持つ者は着実に増えてきている。二点タッチによる操作を「直感的」だと言ってしまう人が増えてきたということが、それを如実に語っているではないか。

そう考えると、アラン・クーパーが、論理世界に通じ過ぎるあまりユーザの心情を考えない人を侮蔑的に呼んだ「Homo-logicus ホモロジクス」という言葉は、むしろヒト-コンピュータ共生系として、ヒトの考え方もコンピュータの考え方も理解できる、我々のありうべき未来の姿を的確に捉えたものだったのではないだろうか、と私には思えるのだ†7。この道を進むのであれば、これからのインタフェース設計に求められるのはコンピュータの内部情報に直結した表現と、それに対する直接的なインタラクションを作り上げることで、論理的世界と物理世界を地続きにし、その両方を日常として生きるような生活空間をもたらすことだ。日々論理情報と相互に作用しあうことで、新しい「直感」が生まれることになるだろう。

タッチパッドを使いこなす幼児を指して「デジタル・ネイティブ」などと評する向きもあるが、それくらいならまだオランウータンでもこなせる程度のものだ†8。論理的世界を自分の日常として捉えられるような感覚を備えた段階まで到達したとき、真のデジタルネイティブ世代が生まれる。

2013.8.16

†1
The Register: Apple wins Samsung import ban, loses 'Battle of Rounded Corners II'
†2
Bloomberg: スマホ特許紛争で明確な勝者不在-アップルに有利な判断でも
†3
Xiang Cao et. al. ShapeTouch: Leveraging Contact Shape on Interactive Surfaces in Proceedings of TABLETOP 2008, 139-146.
†4
Microsoft Research の Andy Wilson は ITS 2012 の講演で、実際にこうした仮想インタフェースを試してみた際の経験を、やり過ぎの例として語っている。
†5
息を吹きかけるとアイコンが散るインタフェースは実際に提案されているが、真面目に採用を検討するような企業はまずないだろう
†6
山形浩生は著書「新教養としてのパソコン入門〜コンピュータのきもち」(amazon)でこうしたプログラマの感覚を、「コンピュータのきもち」がわかること、と説明している。
†7
ソニーCSL/東京大学の暦本純一はよく「人馬一体」という言葉を引き合いに出してコンピュータと人との関係を説明している。コンピュータを使いこなすというのは、手に握った金槌が手の延長であると感じるような、道具を使う感覚というのを超えて、生物を相手にするかのようなものであることを言い表しているのだと思う。
†8
LuarModule7: オランウータンだってデジタルネイティブです