「説明の道具」としての擬人化

ぜんじろう (@zenzenjiro)

科学にあこがれがあるのに、いつも本を読んで、難しくて挫折する。現実なのに、逆にリアリテイーがない。迷信のほうが、非現実なのにリアリテイーがあるのは、なんでやろ?

2011.6.8

という、ぜんじろうさんの tweet を見て、こんな返答を即興で書いたのだが、実は以前から考えていたことと深くつながっているので、これを機会にまとめてみよう。

「迷信」といっても色々あるんだけど、ここで取り上げたいのは、例えば「神がお怒りになった」とか「霊の祟りだ」といったもの。あるいは「自然からの手痛いしっぺ返し」みたいなのも含めてみたい。つまり、何らかの形で「人間的な存在」を持ち出して因果関係を説明しようとするものだ。

なんだかよくわからない現象が起きたときや、想像を絶する大きな出来事が生じたときに、僕らはそこに因果関係を説いた「説明」をつい求めるという傾向がある。その説明によって、正体がわからないことから来る不安を解消できたり、あまりにも悲しい事が起きたときにそこに理由を見付けてわずかではあっても安心を得られることが多いからだ。

科学はまさしくそうした説明行為を精密化しようとするものだけど、宗教なんてのもその「説明」のカタマリみたいなもので、人の死という不安と悲しみを強烈に引き起こす現象に対して、これでもかというほど説明と解決の手段を用意してくれている。まぁこれが悪い方向に働くと、異常な程の信仰心のあまり生活がおろそかになってしまったりすることもあるんだけど、基本的には人の心に安心をもたらすことで、これまでの人間社会の安定に役立ってきた。科学では説明のしようのない出来事にも、宗教はある程度の説明を与えることができたりする。 (ちょっと横道にそれちゃうけど、宗教においてもそうした問いに対して「説明不可能」を言い渡すことはよくある。「神の御心は謎」である、とか、そういうことを考えても仕方がない、そうした執着を捨てなさい、と諭したりしている。これはとても誠実な態度なんじゃないかと思う。わからないことをわからない、と言い切る態度が尊重されるのは科学でも同じだ)

で、宗教と並置するのはちょっと申し訳ない感じもするんだけど、「迷信」というのも、そうした説明の集合体だ。こないだ風邪引いてえらい目にあったのは方位が悪かったからだ、いやいや星の巡りが悪かったからだ、えーそんなの霊がついているからに決まっているじゃない、何をいうかすべてはプラズマのせいなのじゃ、黄色いものを東南の方向に置くとよいぞよ、てなもんで、日常生活におけるこまごまとした不安やいらだちに対して、豊富な原因説明と解決手段が用意されている。

そして面白いことに、そうした「迷信」の中には、その原因を「人間的なもの」に求めているものが少なくない。なんとかがお怒りじゃとか恨み祟りの類は、人間と同じように考え振る舞うものの存在を前提としている。「自然からの報復」なんてのも、自然現象の中に勝手に意図や意志を持たせた説明の仕方だ。そして、人間的存在による説明がもっとわかりやすい形で現われたのが妖怪や妖精の類だ。どれもこれも、人間みたいな格好をして、人間みたいに悪だくみしたり、逆に人を助けたり、騙されたりうっかりしたりする。元の素性が猫や狸の動物だったり、瀬戸物みたいな非生物であったとしても、そこに魔性を与えられるとだいたい人間的な振舞をするようになる。

これは何故かっていうことなんだけど、やっぱり人間にとっては「人間的なもの」が一番理解しやすいからなんだろうね。最近では脳科学や心理学の研究からも、こうした人間のものの理解の仕方が少しづつ分ってきているんだけど、やはり「自分と似たようなもの」についての理解はとても強い。例えば脳科学で話題になった「ミラーニューロン」という脳細胞についての研究がある。これはサルの脳を研究していて発見されたものなんだけど、自分がある行為をするとき、例えばアイスクリームをすくって食べるときに活発に働く脳細胞の一群の中から、自分以外の同種の個体が同じようにアイスクリームを食べているのを見ているときにも、なんと同じように活発になるものが発見された。単に相手が何かをしているのを見ているだけなのに、さも自分がそれと同じ行為をしているかのように脳細胞が働いていたわけだ。これが霊長類特有のものなのかどうかについてはまだ議論されている段階なんだけど、どうやら僕らは、自分と似たように振る舞うものを目ざとく見付ける機能を持っているらしい。

これをもうちょっと想像をたくましくして考えると、もう一歩進んだ段階として、人間は「社会的な」存在を素早く見分ける能力を持っているように思う。つまり、何かが社会的に振る舞うかどうかについて、人間は敏感に察知し、また理解が早い、という訳だ。この考え方を支持する実験もある。鹿野司さんの「サはサイエンスのサ」(2010年3月13日の小ネタ参照) で紹介されていた実験が面白いので、そのまま紹介しよう。

今ここに、表にはアルファベットが、裏には数字が記されたカードがあって、下の図のようにそのうち4枚が並べられている。実はこれらのカードは、「表に母音が記されているカードの裏は必ず偶数である」という法則があるというんだけど、それが本当かどうかを確かめるには、どれとどれをめくって確認すればよいだろうか。

[A] [K] [5] [8]

これを大勢の被験者を相手に実験すると、かなり多くの人が「A」と「8」と答えるんだそうだ。正解は「A」と「5」。偶数のカードの裏が子音の文字だったとしてもそれはルール違反にはならないけど、奇数のカードの裏に母音が書いてあったらルール違反だ。間違えちゃった人は、多数派だから心配しなくてもいい。人間はこういうのを直感ですんなり理解できないんだから。正解した人でも多分、頭の中でちょっと考えて、いくつかの場合をシミュレートしていたんじゃないだろうか。

では次の問題。今度はパーティに来ていた人達の年齢と、その人が飲んだものが表裏に記されたカードが下図のように並んでいる。では、「20歳未満の人は必ずソフトドリンクを飲んでいる」ことを確認するにはどれとどれをめくればよいか。

[18歳] [30歳] [ビール] [烏龍茶]

今度はみんなすんなり正解したんじゃないだろうか。考えなくても「18歳」と「ビール」をめくればいいってのはすぐわかるよね。ところがこの問題は、さっきのアルファベットと数字のカードと、論理的にはほぼ同じだ。なのに、正解率はさっきの問題とは段違いという結果が出る。

この理由もやはり、ある「行為」が普段慣れ親しんでいるルールに違反しているかどうかの判断において、人間は敏感だからだ、と考えられている。「未成年はアルコール飲料を飲んではいけない」という人間社会特有のルールであっても、それに違反しているかどうか、素早く判断できるようになっている。

こうした人間の判断の特性があるから、なにか未知の現象に出会ったときに、それを何か人間的な存在によるしわざだと考えるようになるのは自然なことだ。そこにさらに想像力が加味されて、カマイタチだとかぬり壁だとか、人間くさい妖怪が顔を出してくる。ときにはちょっとユーモラスですらある、こうした妖怪達が出現するのはつまり、僕らがそれだけ人間的なものに魅かれているからこそ、なわけだ。

こうなると、科学的説明というものが「リアリティーがない」と言われてしまうのもわかる気がする。なんでもかんでも人間的なものに帰属させて世界を理解していくというやり方は、馴染があって居心地がいいんだけど、思い込みのせいで頻繁に間違いを引き起こしてきた。そうした曖昧さを排除して精密な理解をするために、科学という方法論は先鋭化されてきたんだけど、その分どうしても、分かりやすさとか親しみやすさは消えてしまうんだよね。科学の世界は、思い込みや勘違いを引き起こさないよう、極力記号的な理解と説明をしようとする。原子とか中性子とかに、性格だとか意志といったものを見出そうとはしない。だから、さっきの4枚のカードの実験みたいに、記号で構成されたものを理解するのはどうしても一手間かかる。

そうした、直感的なわかりにくさ・親しみのなさを解決するための手段として「擬人化」があるのも、人間の理解の特性に合わせたものだ。ただ、これは本質を覆い隠してしまったり、例えば性別のないものにも性を導入しなきゃいけなくなったりといったように余計な要素を加えるハメになったりするので、いつでも使えるいい方法、とは言えない。でも、便利だからついつい使っちゃうんだよねぇ。

2011.6.11