字の呪術性〜「神々の沈黙」と「白川静」
そんなこんなで年越しはとても冴えなかった訳ですが、 年末にふと本屋で目にとまった、松岡正剛の「白川静」(amazon) がとても良かった。
白川静の業績については、呉智英の著作を通じてなんとなくは知っていたのだけど、 漢字の呪術性という考え方、すなわち字それ自体が力を持つと考えられていた、 という点に今ひとつピンと来ていなかったのと、それ程強い興味を持たなかったので、 いつかは読みたいなと思いつつ放置していた。そこへきてふと見つけたこの本は、 「白川静への初の入門書!」と帯にもあり、入門させていただけるならば、 と買ってみたのだ。で、通して読んでみて、今回はかなりすんなりと白川の漢字観が理解できた。これは松岡正剛の手引きがうまい、というのもあるけど、 それ以上に、その前にジュリアン ジェインズ の「神々の沈黙」(amazon)を読んでいた、というのが大きい。
「神々の沈黙」は、「人間の意識はいつ生まれたか?」という問いに対し、 神話や宗教史から読み解くという手段で挑戦した研究をまとめた著書である。 その結論は、かなり最近 (数千年前) になるまで人間は明確な意識を持たなかった、 というもの。そして意識を獲得する前の人間は、 幻聴や幻視によって「神」と直接対話していた、という大胆な説を提唱している。 つまり大昔の人間は、ありありと「神」を感じており、その神の命ずるところに従って行動していた、というのだ。
ここでいう「神」ってのは、決して超越的存在を意味するのではなく、 無意識に生じる幻影と言い換えて差し支えない。ただ、意識を獲得する前の人間にとってはその神の存在感は非常に強く、 そこらの人間と対して変わりないくらいに、はっきりと視ることができ、 その声を聞き、触ったりセックスしたりできるくらいのものだったのではないかとジェインズは述べている。
さて時代が下り、言語が発達して次第に人間が意識らしきものを獲得するようになってくると、 脳内の神の力が弱まってくる。理性が邪魔をして、幻影を素直に受け取れなくなっていく訳だ。 しかし、困った時に何でも明確に命じてくれる神がいなくなってしまい、 いきなり何でも自分で考えなきゃいけなくなると当時の連中は困ってしまった。 そこで、何とか神に戻ってきてもらうよう、様々な宗教的儀式や呪術を発達させ、 幻影をなんとかして引き起こし、神の力にすがろうとした。 それが各地に残る神像や壁画、踊りや歌の起源なのではないか、という訳だ。
そうした神の力を呼び戻す力の源の一つに、文字があった。かつて神の言葉を記した文章を目にすることで、 幻聴の引き金にしていたのではないか、というのだ。そして時代が下り、 さらに人間の意識は明確になり、理性が発達し、それに従って神の声がもはや聞きとれなくなった頃には、 神を呼び戻すという用途は忘れ去られ、そこに込められた呪術性のみが残る。 そうしてそれらは書物として、あるいは単なる護符として後世に残されたのだという。
この考え方を背景に持っていると、白川のいう「呪能」、すなわち呪を発する力が字にある、 という考え方がたちどころに理解できる。甲骨金文の時代には、 文字にはそれを目にする者に対する確かな効力があったのだ。 だからこそ、甲骨文字は占いの道具 (亀の甲や骨) に刻まれ、生まれたのである。
ジェインズ・白川のいずれの説も、詩や歌などに残る表現から古代人の心象を再現するべく類推を重ねていく「ソフトウェア考古学」に立脚する部分が多い。 もはや物的証拠から立証することは非常に難しいため、 これが正しいとも間違っているとも結論づけにくく、反論も多いのではあるが、 今回二つの著作を並べてみて、西洋と東洋との呼応に、なんとなく説得力を感じることができた。
2009.1.6