ルールを「修復」する

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ルールの「修復」

『ゲーム学の新時代』

中沢新一・中川大地 編集(NTT出版, 2019)

先月書いた「『修理する権利』は『遊ぶ権利』である」では、既存の製品を修復することでそれ「本来の姿」という束縛を緩め、それが遊びの余地を生む、ということを述べた。この「修復」と「遊び」との関係が、いま私が強く関心を持っているテーマなのだが、両者が深く関係する論考をかつて書いたのを思い出したので紹介したい。

2019年に出版された『ゲーム学の新時代』という書籍に寄せた論考「コンピュータゲームが社会規範を拡張する」で私は、コンピュータゲームはプレイヤーに規則や規範の遵守を強制できることをテーマに論じたのだが、論考の最後で、コンピュータゲームではなく人が現実に集まって物理的に楽しむようなゲームが持つ柔軟性について、以下のように書いた。1

最後に、プレイヤーがシステムを改変できることの意義について触れておきたい。コンピュータゲームはさておき一般にゲームの規則は、プレイヤー間で合意がとれれば、公式戦でもない限りは改変が可能である。子供の遊びでは、遊び場の制約や戦力の著しい不均衡を是正するために規則は即興的に改変されるのが常である。こうした規則の改変は、うまくはまればプレイヤーの楽しみを大きく増すことができる。

一つ事例を引こう。ラジオパーソナリティの伊集院光が自身のラジオ番組で紹介した、コメディアンのラサール石井が少年時代に経験した野球の特殊ルールに関するものである。2

ラサール石井は少年時代、あまりに野球が下手だったため、周囲の友人達は石井をメンバーに加えて野球をする際には特殊ルールとして、「石井のそばにボールが落ちたら1アウト、ノーバウンドでボールに触ったら2アウト、万が一捕球できたら3アウト」とした。普通、例えば1アウト3塁という状況でもしバッターがフライを打ち上げたら、それを捕ったのがたとえイチローのような強肩の持ち主であったとしても、犠牲フライで1点入るのを防ぐことはできない。ところがこのルールが施行された場合、石井はノーバウンドでボールに触るか捕球するかすれば、無失点に抑えられる。すなわち、プロ野球の一流選手ですら達成できないプレイが石井には可能となる。そのことに、当時の石井はいたく興奮したそうだ。(筆者によるまとめ)
(強調は本エッセイの筆者による)

この事例は要するに、チーム間の勢力不均衡を解消するために、ルールを変えることで対処しようとしたものだ。これは考えようによっては、壊れかけていたゲームバランスをルール改変という手段で修復した、と見ることができる。

もとより、遊びは柔軟でなければ成立しない。野球のように、手本となる競技とそれを支えるルールが厳然として存在するようなものであっても、それが遊びであれば、プレイヤーの数が足りなければチームどうしでプレイヤーを融通するし、遊び場が狭ければそれに応じてルールを変えるのは、ごく普通に行われている。そうした工夫が、新しいプレイや面白さを生み出す。もしラサール石井がフライを捕球したら、きっと両チームともが大歓声を上げるに違いない。

反対に、それが競技として整備されると、即興的で柔軟なルール改変はやりにくくなっていく。そのわかりやすい例は競技スポーツに見ることができる。ここではスポーツの歴史を振り返ることで、遊びが「スポーツ」化され、ルールが厳密になっていく過程を見てみたい

なお、前掲書の論考を記した段階ではまだ浅い検討しかできておらず、そうした即興的な修復がすべての人に平等な機会を提供するとは限らないという点には触れられていなかった。遊びにおける恣意的なルール改変が特定の誰かを排除するために行われることもままある。本エッセイでは、前論考で十分に論じられなかった他の論点についても補足しつつ、遊びの場におけるルール改変の意義をあらためて強調しようと思う。3

「競戯」から「競技」へ

そもそも元はといえば、スポーツのルールもたいして厳密なものではなかったし、公平さを重視したものでもなかった。スポーツ文化研究の泰斗・中村敏雄の『スポーツルールの社会学』によると、 1866年にロンドンで初めて開催された陸上競技会は、ほとんどの競技がハンディキャップレースだったそうなのだが4、その目的は当時の文献によると以下のようなものだったらしい。

陸上競技の試合は、ランナーが同じスタートラインから一斉にスタートする普通の競技方法よりも、巧みにハンディキャップをつけたレースの方がはるかに興味深く見られるものである。5

つまりハンディキャップをつけたレースによって勢力不均衡を弱め、レース展開を白熱させ競技会を盛り上げることが重視されていたのである6

中村によれば、それまでの競技会は、村祭りでやる遊びのような楽しみのための競技、いわば「競戯」の側面が強く残っており、参加者は近隣住民がほとんどだった。この頃はまだ、ルールを決める主導権は参加者達にあったといえる。

しかし、交通機関や通信手段の発達にともなって「その名前や経歴などをあまりよく知らない遠くからやってくる人たちが参加するもの」7へと変質していき、そうした連中が賞金をせしめて去っていくような事態も起きるようになった。さらに、名の通った競技会が開催されるようになってくると今度は試合結果を対象に賭けをする者が増えてくる。そうなると、ルールの整備と運用、および客観的で厳密な判定とが求められるようになっていくのは避けられない。村祭りの延長ではやっていけなくなったのである。

こうして、「競戯」が「競技」へと変質していき、遊びの雰囲気は撤退してゆく。その中で「競戯」の楽しさを少しでも残そうとする取り組みが、ハンディキャップ制度だった。中村はこれを「競争の過程と結果の双方を楽しもうとした時代の一時的な文化享受の形態」であったと述べている8。しかしそうした抵抗も「一時的」なものであり、ハンディキャップレースはどんどん縮小されていった。遊びの雰囲気を残すための修復は、コミュニティ拡大の荒波に呑まれてしまったのである。

コミュニティの拡大がルールの厳密化をもたらす

球技のように、競技性よりもゲーム性が強く、観て楽しむ「競戯」の側面が強いスポーツであっても、やはりルールの厳密化の道を辿る。例えば初期のフットボール(サッカー)は、学校やクラブ毎にルールが異なるのが普通であり、そのルールも今の水準から見れば項目数も非常に少なかった。 1863年に制定された最初の統一規則は、わずか13条からなるものだった。9

『スポーツルール学への序章』

中村敏雄(大修館書店, 1995)

ルールに定められていない出来事に対しては、プレイヤー間の協議によって判断された。現代のスポーツに慣れ親しんだ頭では、そうした場合には審判の裁定に委ねたのではないかと考えてしまうのだが、中村敏雄『スポーツルール学への序章』によれば、当時上流階級の間で遊ばれたスポーツでは、「審判はキャプテンの下位に位置し、両チームのキャプテンの合議による裁定の方を重視」していた。10

こうした考え方の底流には、法律とは市民の生活を律するためのものであり、貴族はそのような法律には縛られることを潔しとせず、「下級役人が作成し、議会が承認した法律を下卑たる存在」と考え、当事者間での合議を優先する考え方があったようだ11。であるが故に、貴族や新興ブルジョワジーの子弟らが競う各種スポーツにおいても、審判ごときに裁定を委ねるまでもなく当事者間で解決することが最善である、というのが彼等の考え方だったのである。

そうしたスポーツをとりまく制度に垣間見える階級意識の是非は置くとして、スポーツといえど、もともとは遊びと同様、プレイヤーによる自治が基本だった。それが次第にルールの厳密化へと進んでいったのは、人気の高まりにともなってのグローバル化と商業化が大きな要因として挙げられる。

グローバル化の事例は、初期フットボールにおける統一規則の制定経緯がわかりやすい。それまではフットボールの試合はパブリックスクールやクラブの中で行われるのが主だったのが、スクール間・クラブ間での対抗戦が行われるようになり、規則のすり合わせが必要になってゆく。前掲書によれば、試合の前には両チームから代表者を出しルールの調整をあらかじめ行うのが通例であったのが、その面倒を解消するために統一規則が求められるようになったようだ12。交通網の発達にも後押しされ、スポーツは次第にグローバル化していき、それが規則の統一化を促したのである。このあたりは、先に紹介した陸上競技会とも通底している。

また、スポーツの商業化は、スポーツ観戦がメジャーな娯楽へと成長していくのに伴っておこる。チームの来歴や選手にたいした興味を持たない観客にとって、その興味の対象は自然と試合の勝敗に向く。金を賭けていればもちろんのことであるのは先の陸上競技会と一緒だが、賭けなかったとしても、応援しているチームに勝って欲しいと真剣に思えば、納得のいかない理由で負けが決まれば不満を抱く。その気持ちがルールの厳密化を強く後押しする。

バスケットボールの創始者である James Naismith は、ルールおよびその運用の厳密性については万全を期すことが大事であり、その理由として「観衆の人間性の尊重」を挙げていた、と中村は指摘している13。 Naismith はこのように書いている。

… many of the spectators are very well versed in the technique, and that it is against human nature to expect these people to sit passively and accept some decision that they honestly feel to be unjust.14

多くの観客は(バスケットボールの)技術に精通するようになってきた。彼らが心から不当だと感じる判定が下されたとき、それを黙って座って受け入れよというのは、人間の本性に逆らうことである。 (福地訳)

Naismith は著書で、バスケットボールの〈観るスポーツ〉としての側面について何度も言及しており、観客から見た分かりやすさ・面白さを高める工夫について注意を促している。プレイヤー間の協議や審判の独断での裁定でものごとを決めてしまうのは観客の軽視につながる、と考えたのであろう。

観戦人口が増えたスポーツではどれもだいたい同じようなことが起きているように思われる。こうしたスポーツでは、公正化を目的にルールの厳密化・細分化が進み、審判がどんどん増えていく。さらには機械を導入してでもその運用を厳密化していこうとする流れにつながっていくのは、野球やサッカーなどの球技はもとより、レスリングや柔道などの格闘技にも見られ、果てはフィギュアスケートのような審美系スポーツへの AI 判定の導入も議論されるようになりつつある。

ここまでをまとめれば要するに、コミュニティの規模が拡大するにつれ、ルールの厳密化が強く求められるようになっていく、ということだろう。

ちなみに同じようなことは他の分野でも見られるもので、2ちゃんねるや Reddit のような電子掲示板で、いわゆるスレッドの「住人」が増えてくると、住人による「自治」が始まり、規模拡大につれてそれが成文化されていくのをよく見かける。アイドルの応援のようなものでも、いつの間にか「親衛隊」とか「古参」が組織化され、その場を仕切るようになっていったりする。コミックマーケットでのコスプレに関するルールも、長い歴史の中で様々なトラブルを経て、ルールが次第に厳密化していった経緯がある。15

遊びは閉鎖的なものである

ただし、ルールの厳密化が遊びの精神の衰退に常に結びつく訳ではない。ルールが厳密に運用されるからこそ、参加の機会が公平に確保され、競技を開かれたものにしているという側面も無視できない。

プレイヤー間の取り決めによる即興的なルール改変は、それが悪意を持って行われれば、特定の人物を排除する道具にもなる。例えば、排除したい人物だけが眼鏡をかけているような場で、「眼鏡の着用は禁止」というルールを即興的に付け加えるようなことが、小規模なコミュニティでは起こりうる。そんなとき、成文化されたルールの厳格な運用こそが、小規模コミュニティ内での多数派による排除の暴力から、個々人の参加の権利を守ることになる。

一方で、上の例で眼鏡の人物を排除しようとしていた集団が、誰かに(例えば先生に)諭され、仕方なく眼鏡の人物の参加を認めて遊びを始めたとしても、もうその遊びの雰囲気は壊れてしまっているだろう。遊びの雰囲気(マジックサークル16)は、えてして壊れやすいものなのだ。

この例に見るように、そもそも遊びは公共のものではない。多くの研究が共通して指摘するように、遊びはごくプライベートなものであって、誰にでも開かれているものではないし、そうあるべきでもない。同じような遊びであっても、包摂的に遊ばれることもあれば排他的に遊ばれることもあるのは、遊びの性質からいって、むしろ自然なことである。

適切な「修復」の難しさ

しかし閉鎖的であるからこそ、柔軟なルール改変によってその遊びを楽しめる人を増やすことができるのは、冒頭で紹介したラサール石井用特別ルールの事例に見た通りである。「石井のそばにボールが落ちたら1アウト」などというルールが公共化したスポーツの公式ルールに取り入れられることはまずありえないが、閉鎖的な遊びの場では、参加者の合意さえあれば可能である。これは遊びの特権であるといってもよい。

とはいえ実際には、遊びのルール改変はそんなに簡単ではない。元々の遊びの面白さを損ねないようにルールを改変するには、それなりの経験とセンスを要する。例えば、ラサール石井がいるチームは最初から3点もらえるとか、攻撃時、石井は無条件で1塁からスタートするなどの対処では、石井にとって野球の面白さは損ねられてしまうだろう。石井の下手さを補ってくれるルール改変ではないからだ。「万が一捕球できたら3アウト」というルールはおそらく、石井の参加機会を確保しつつ、面白さ・緊張感とのバランスを取ろうとして編み出された妙案だったのだ。

皆が納得できるバランスのとれたルール改変は、誰もがすぐにできるようなものではない。いま何が課題となっているのか、それをどう改変すれば状況を改善できるのか、そしてその改変の合意をどうとりつけるか—— といったことを考え、実際に試行錯誤を重ね、経験を積む必要がある。

そして、そうした試行錯誤はコミュニティの規模が小さいうちでないと難しい。先に見たようにコミュニティ規模が大きくなればなるほどルール改変の障壁は高くなり、経験を積むことが難しくなる。規模が小さければ参加者間での議論もやりやすいし、テストプレイも素早くできる。外から文句をいうだけの観客もいないから、すべては自分達で迅速に決めることができる。そうした経験を積まないまま年齢を重ね、属するコミュニティ規模が大きくなっていくと、ルールは改変できる、という発想すら持てなくなってしまいかねない。

ルール改変の経験を積むには

こうしたことを考えると、私達はルール改変の経験をもっと積極的に積む必要があるのではないかと思う。

学校で、職場で、私達はルールを遵守する訓練ばかり受けさせられている。 SNS でも、ルールを徹底して遵守することを尊び、少しでもそれに違反したものは強い調子で非難される場面を見かけることが増えてきたような気がする。政治とかスポーツなどといった公共性の高い場であればわかるのだが、個人の生活においても、過去の発言と一貫しない行動に対して「ダブルスタンダードだ」と批判し、外野が対象人物の行動規範を勝手にルール化し、違反を監視するかのような風潮が観察されたりする。

また、私達が日常的に経験するルール改変は、細則を追加してルールを厳密化するものであることが多い。誰かがちょっと迷惑に感じた行為を取りあげて「次からはそれを禁止しよう」としてルールを追加するのは、まったく頭を使わずになにかやったような気になれるせいか、どんなコミュニティでもよく見かける状況である17。その結果、その時点でのそのコミュニティにとって都合のよいようにルールは厳密化され、それがやがて硬直化をもたらす。

そうした、硬直化を招く改変を避け、コミュニティの創意工夫を促し、遊び心を刺激するようなルール改変は、前にも言ったように難しいものである。よりよいルール改変のための営みは、その場の仲間と相談し、どのように改変すればよくなるのかアイデアを交わし、合意を取りつけ、テストプレイを重ね、不具合があれば修正し、うまく行くようであればそれを次回以降へと引き継いでいくという、なかなかに面倒なプロセスを経るものである。

そうした「修復」の経験を積んでおかないと、なにかがおかしくなっていても、それを修復しようと気が起きないし、そもそも修復できる、と思うことすらもできなくなる。そうなれば、ルールに従順になって硬直や排除の害には目をつぶるか、さもなくば「ルールは破るためにある」とばかりにルール違反を常態化させるしかないが、それはルールそのものの存在意義を損ねるものでしかない。そのどちらも避けるためには、ルール改変の経験を小さな頃から積む必要があるだろう。そうして培われたルール改変の経験は、コミュニティ規模が大きくなったときに活きるはずだ。

子供がそうした経験を積む場を、今の社会は奪ってはいないだろうか。そのことが気がかりである。皆が自由にルールを改変できる遊びの場を維持することは、私達の社会を柔軟で開かれたものにする上で、大切なことなのではないだろうか。


  1. 福地健太郎「コンピュータゲームが社会規範を拡張する」, 中沢新一ほか『ゲーム学の新時代』所収, NTT出版, pp. 218-219, 2019 ↩︎

  2. 伊集院光『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』2017年6月5日放送 ↩︎

  3. 話が少しそれるが、検討が浅かったといえば、コンピュータゲームでは遊びに見るような柔軟なルール改変が難しいことも同書で述べているのだが、この指摘も中途半端だった。というのも、コンピュータゲームにおいても “mod” と呼ばれる、ユーザーによるルール改変を許す手段が提供されていることがあるからだ。現実空間での遊びに見るような、その場その場での即興的なルール改変ができるほどの柔軟性はないものの、あらかじめ mod スクリプトを作っておけば、ゲームによってはルールの大部分を書き換えられるほどの柔軟さが許される。

    mod による修正の範囲は多岐にわたる。無敵モードの追加やステージスキップなど、ゲームの難易度を著しく改変するようなものばかりではなく、プレイヤーの腕前や年齢、身体的ハンディキャップを考慮した難易度や遊びやすさの調整、さらには宗教的信条や性的嗜好に合わせてゲーム内の表現そのものを改変するようなものも含まれる。 ↩︎

  4. 中村敏雄『スポーツルールの社会学』朝日新聞社, p. 22, 1991 ↩︎

  5. Henry F. Wilkinson “Modern Athletics”, Frederick Warne & Co., 1868 ↩︎

  6. 余談になるが、この競技会を主催したのは “Amateur Athletic Club” という組織で、クラブが定める “amateur” の条件として、「職人、技能工、あるいは一般労働者 (“mechanic, artisan, or labourer”)」ではない者、と条件が定められていた (Wilkinson 1868 p. 16) 。この条件のできた理由は、階級意識はもちろんのことだが、日々の労働で肉体が鍛えられている労働者はいわば「プロ」であり、純粋に競技目的で肉体を鍛錬するアマチュアと彼らとを区別したい、という思惑もあったようだ。

    同種のことは日本でもあり、1911年に制定され、1920年に改正された大日本体育協会による「競技参加者資格」には、「品行方正ニシテ脚力ヲ用フルヲ業トセサルモノ」とある。人力車の車夫や郵便配達夫など、日々の業務で脚力が鍛えられているような「プロ」を排除する目的がこの条項にはあったらしい。 (中村1991 pp. 73-74)  ↩︎

  7. 中村1991, p. 38 ↩︎

  8. 同 p.39 ↩︎

  9. National Football Museum “The Laws of the Game, 1863” (accessed on 2026.01.18) ↩︎

  10. 中村敏雄『スポーツルール学への序章』大修館書店, pp. 153-154, 1995 ↩︎

  11. 同 p. 161 ↩︎

  12. 同 pp. 110-111 ↩︎

  13. 中村1991, p. 85 ↩︎

  14. James Naismith “Basketball: Its Origin and Development”, Association Press, p. 189, 1941 ↩︎

  15. 駄チワワ氏による「歴史と資料から見る『公共スペースでのコスプレ』議論2:歴史的経緯から」が参考になる。筆者が覚えている範囲だと、『キャプテン翼』が人気だった頃、サッカーボールを蹴り歩く者が出てしまい、サッカーボールの持ち込みが禁止になった時期があった。また、たしか『るろうに剣心』の頃だったと思うが、日本刀の真剣を持ち込んだ者がいたため、一時的に、刀剣類は作り物であっても禁止されたことがあった。現在では「銃刀法での規制対象となっている銃砲・刀剣類(同法に触れる可能性がある模造品を含む)」の持ち込み禁止、と定められており、銃刀法に抵触しなければよいことになっている。コミックマーケット 107: コスプレエリア利用ガイド」(accessed on 2026.1.18)

    ただし、コミックマーケットでは参加者による自律が重視されていることも強調しておきたい。コスプレイヤーや撮影者向け諸注意には「スタッフがみなさんのコスプレを常時確認することはできませんし、したくありません」「コミケットにおいては、コスプレをひとつの『表現』として、その可能性を追求していく対象だと考えています。法令を守ることは前提ですが、過剰に反応して過度な自粛を求めたり、萎縮を招くような呼びかけによって、表現の範囲を狭めたりしてしまうことは本意ではありません」と書かれている。(accessed on 2026.1.18)  ↩︎

  16. Katie Salen & Eric Zimmerman “Rules of Play”, MIT Press, 2003 ↩︎

  17. 奇妙なビジネスマナーが増えていくのもこれだろう。ネットで見かけるこの種のマナーのほとんどが何かを禁止するものであり、包摂のためのマナーが言われるのをまず見かけない。 ↩︎