百聞は一見にしかず、百見は一◯にしかず
VR ブームが来るたびに、「百聞は一見に如かず」に続けて「百見は一体験に如かず」とか「百見は一触に如かず」といったもじりが書かれているのをよく見かけたものだが、あれらはいったいどのようなつもりで書かれたものだったのだろうか。私見ながら、この種のもじりは、「一見」をどうも勘違いしているように思われる。
「百聞は一見に如かず」はよく知られているように、『漢書』の中の「趙充国伝」を出典とする故事成語である。前漢の頃、ときの皇帝が将軍・趙充国に、敵対勢力はどれほどいるのかと尋ねたところ、趙充国は「百聞は一見に如かず(百聞不如一見)。離れていると相手の兵力を推し量るのは難しいものです。私が相手の近くまで行って見てきてから、戦略を奏上いたします。」(福地訳) と答えた、というのが由来となっている。
ここからわかるように、この「一見」は、現地に行って直接見てくることを意味していた。伝聞から推測するだけで済ますのではなく、直接行動することの意義を強調する言葉なのである。
「見る」という言葉が直接的体験を含意するのは、例えば「見物」とか「見学」という熟語に「見」が使われていることからもわかる。 Zoom や YouTube で見て済ますことを「見物した」とか「見学した」とは言わないだろう。つまりこの「見る」は、単に視覚刺激を受け取ることのみを意味しない。そのとき、その場所に居て、様々な感覚刺激を受け取ることがここでいう「見る」なのである。「百見は一体験に如かず」といったもじりは、「見る」という言葉のそうした意味を取りこぼしてしまっている。
とはいえ、この種のもじりは結構古くから言われている。試みに国立国会図書館デジタルコレクションで調べてみると、なんと1890年、すなわち明治の頃から言われ続けているのである。

国立国会図書館デジタルコレクションでの、“百見は一” の検索結果(出版日昇順)
では明治より前にさかのぼれるのだろうかと考えたのだが、デジタルコレクションほか、大学から使えるデータベースをいろいろと漁ってみたものの、それらしい用例は見つけられなかった。
ごくごく狭い範囲での調査から断定的なことはもちろん言えないのであくまで憶測としてだが、「百見は一◯に如かず」のもじりがなされるようになったのは明治以降なのではないだろうか。その要因ではないかと私が推測しているのが、写真の普及である。
写真が普及するまで、遠く離れた土地での出来事や昔の出来事を知るには伝聞という手段しかなかった。噂話として聞くか、あるいは木戸銭を払って講釈師から聞くか、はたまた瓦版なり本なりの印刷物を経由するか、いずれにせよ時空間を隔てた出来事は、言葉というメディアを通じてでしか入手できないのが普通だった。
それが、明治期に入って写真が普及すると、それまでとは比較にならないほどリアルな視覚メディアが日常化した。時空間を隔てた出来事を、目で見て確認することができるようになったのである。新聞に写真が掲載されるようになったのは明治20年頃だというから1、 1890年より少し前には、印刷された写真を人々が見かけるようになっていたと考えられる。デジタルコレクションでの調査では1890年から「百見は一◯に如かず」のもじりが始まっていたのは、もしかしたらこれが関係しているのかもしれない。
これが正しいとすると、この頃から「一見」の価値の低下が始まったと考えられそうだ。写真の普及によって、静的な視覚情報をただ眺める以上のことができないという制約の強い状況を「見る」と呼ぶようになってしまった。見るという行為から、そのとき・その場所での体験という意味が失われていったのである。この傾向は、映画が発明され、テレビが普及し、YouTube や Zoom が広まりと、段階を踏んでますます強化されているように感じる。
そう考えたとき、仮に VR 機器が、触覚その他を精密に再現できるようになったとして、それは元々の「一見」がそなえていた体験を提供するものとなるだろうか。むしろすぐにその価値は低下して、結局は「百◯は一△に如かず」の「百◯」側に回るような気がする。例えば味覚提示装置・嗅覚提示装置が発達すれば、当初は「一舐めに如かず」「一嗅ぎに如かず」などと喧伝されるのだろうが、すぐに「百舐めは〜」「百嗅ぎは〜」と価値低下し、本来の体験の重要さを強調するための引き立て役とされてしまうのではあるまいか。
もちろん、写真や映像の力がいまもって強大であることは言をまたないし、時空間を隔てて視覚情報を伝えることのできる素晴しいツールであって、無くてもよかった、無い方がよかった、というようなものでは決してない。新しく発明される様々な感覚提示装置もまた私達の日常を変革し、威力を発揮するだろう。
ただ、「百見は一◯に如かず」といったもじりを持ち出すときは、本来の「一見」がもっていた意味について、またそれがどのように変遷していったのかに、気を配って欲しいものである。
ところで、「百聞は一見に如かず」と並べてよく引用されるのが、『荀子』の以下の一節である。
不聞不若聞之 聞之不若見之 見之不若知之 知之不若行之 学至于行之而止矣
『荀子/儒效篇』
ここで、4番目の「知之不若行之」は「知るだけでは行うこと(実践)に及ばない」を意味する。これと先の漢書の文言とを混同したものか、「百見は一行に如かず」などと続け、実践の価値を説く者が少なくない。先に挙げた国会図書館デジタルコレクションでの検索結果でも、これに類するもじりをいくつも見かける。
出典の不確かさはここでは置くとして、実践してみることの価値については私も断然同意なのだが2、昨今の生成 AI ブームを眺めていると、やがては「一行」の価値も、「一見」と同じく低下の憂き目にあうのではないか、という気になってくる。
写真が、そのとき・その場所の体験から視覚のみを切り出して伝えるものであるように、生成 AI は、例えば文章を書く、絵を描く、プログラムを書くといった実践の、ある一側面のみを経験させるフィルターとして機能する。写真や映像を眺めて「一見」した気になるように、生成 AI に何かを作らせて「一行」した気になっているうちに、それは私達を本来の経験から隔てていくことになる。その頃にはまた「百行は一◯に如かず」という言葉が生み出されるだろう3。
もちろん、AI もまた私達の日常を変革する道具として使いこなされていくのは間違いないのだが、本来の「一行」から目を逸らされていく危険もそこには内包されている。教育に関わる者として、そこは気を配らねばならないと思っている。
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レファレンス協同データベース・京資-011に、読売新聞が明治21年(1888年)の8月に「会津磐梯山の噴火」の写真を掲載していたことが述べられている。読売新聞のデータベースで調べてみると1888年8月7日からの連載記事の一部で、噴火口や被災地の写真が掲載されていることがわかった。また、同年8月5日の朝刊には、「磐梯山紀行及罹災地方の写真を紙上に掲ぐる」と、写真の連続掲載を告知する社告をわざわざ載せている。この写真付き紀行連載は評判になり、読売新聞は読者を増やしたという (『1888 磐梯山噴火報告書』中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会, p. 92, 2005)。このときの写真は幻燈機による上映会なども行われたようで(同)、ニュース情報を写真で知る機会はこの頃から増えていったと考えられる。 ↩︎
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「間違いだらけの『マシュマロ・チャレンジ』」を参照。 ↩︎
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ネットで探すと「百行は一果に如かず、百果は〜」と続けたものが見つかる。これについては次のエッセイで存分にからかうつもりだ。 ↩︎