誰が「百聞は一見に如かず」の続きを作ったのか

前エッセイ「百聞は一見にしかず、百見は一◯にしかず」では、「百聞は一見に如かず、百見は一体験に如かず」のように、元となった故事成語のもじりについて考察したのだが、ネットで探すと「『百聞は一見に如かず』には続きがあるのを知ってますか」の触れ込みで、もっと長く続けたものを紹介しているページを沢山みつけることができる。中でもよく見かけるのが下記のものである。

百聞は一見に如かず
百見は一考に如かず
百考は一行に如かず
百行は一果(効)に如かず
百果(効)は一幸に如かず
百幸は一皇に如かず

これも元の言葉と同じく『漢書』に由来する、と述べているオッチョコチョイも少なくないが、「後世の人が付け足したようです」と断りつつ、やはり古くから伝わる言葉として紹介し、その意味を解説していく、というページが多い。 2・3行目で「百見は一考に如かず・百考は一行に如かず」と述べているのだから、この言葉の出自を考えたり調べたりすればよさそうなものだが、この手の言葉を解説する手合いは、自分の言っていることを実践する気はないようだ。

実際、ちょっと調べれば出自が怪しいことはすぐわかるし1、ちょっと考えれば、言ってることもおかしいのではないか、と思い至るはずだ。例えば「百果(効)は一幸に如かず」は意味がよくわからないし、最後の「皇」の解釈は、それを紹介しているページによってまちまちである。ならばと出自を探っても、確かな情報はまったく出てこないため、文脈を調べることもできない。ここまで辿り着けば、これは出自の怪しい言葉だから引用するのは止めておこう、と考え至るはずだ。ましてや、ことわざ・慣用句の百科事典に載せちゃったり、朝礼や授業で喋ったり、研修教材に使ったり、ビジネス書に書いたり、学会誌のコラムに引用したり、企業PRに使ったりなんて、しないはずなんですがねぇ2

それはそれとして、そもそもこの言葉はいったいいつ、どこの誰が作ったのだろうか。と思って調べてみたのだが、これがまったく分からなかった。各種検索エンジンはおろか、Google Books や国会図書館デジタルコレクション、各種新聞データベースなどいろいろ使ってみたものの、これといった結果は得られなかった。後述するように、おそらくは 2005年まではさかのぼれることは判明したのだが、作者につながる手応えはいまのところ皆無である。

もう一つ気になっているのが、どうしてこの「〜百幸は一皇に如かず」がここまで広まっているのか、という疑問である。

こういうのって、付け足すのが好きな人、いるじゃないですか。ミルクボーイが M-1 で優勝したとき、彼らの当たりネタである「コーンフレーク」を改変したネタを SNS で垂れ流す人がワンサカいたでしょう。あんな感じで、なにかよさそうな言葉に対して、ちょっとセンスの無い人が、ちょっと面白くないことを付け足していく、という現象がよく起こるものである。実際、国立国会図書館デジタルコレクションや Google Books を使って検索してみると、「百見は一省に如かず」とか「百考は一計に如かず」とか、いろいろとバリエーションに富んだ改作を見つけることができる。

ところがいまネットで検索すると、前掲の形のものが大多数を占めているように見える。「百聞は一見に如かず」で検索すると、この形のものばかりが上位に並ぶ。流行りのネタを改作する人が跡を絶たないように、この手の改作はいくらでも種類が作られそうなものだが、どうしてこのように、ある一つの改作が広く流布するような事態になったのだろうか。

後者の疑問についてもいまのところ手がかりすら得られていない。ともかく、ここまでの調査の経過報告を以下に記すので、有志の参考になれば幸いである。

調査報告

さて、まずいつ頃から言われだすようになったのか。

適当に探してみると、Yahoo! 知恵袋の投稿にこれがよく見つかる。もちろん Yahoo! 知恵袋の常として、投稿内容はどれもこれもアテにならないものばかりだが、 Yahoo! 知恵袋にも信頼できる情報というのはあって、それは投稿の日付情報である。いかにデタラメだらけの知恵袋といえど、こればかりは信用しても大丈夫だろう。それによれば、「百幸は一皇に如かず」まで書かれたものとしては、2011年9月15日のものが最古のようだ。「百聞は一見に如かず」の続きとして誤情報を伝えるものとしては、2005年1月11日のものがあるのだが、こちらは「百考は一行にしかず」までだった。

もうちょっと探してみると、2009年3月13日付けのとある研究室ブログ記事に記述を見つけた。記事を読むと研究室でのセミナーで招待講演者が「百考は一行にしかず」までを紹介したようだが、どうやら記事を執筆した人が、どこかで見つけてきた「百幸不如一皇」までを付け足したようだ。「もともとは〜漢書に書いてある言葉だそうです」と述べているので、この頃にはすでにこれが流布していたのだろう3

残念ながら、いまのところこれ以上古い資料はネット上では見つけられていない。

次に、これがどこで作られたかについてだが、これはまぁ、日本で作られたとしてよいだろう。「百幸不如一皇」のように漢文調で書かれたものを紹介するページも少なくないのだが、漢文だと思って読むとどうも胡散臭い。例えば「百行は一果(効)に如かず」のところで、それまでは「聞→見→考→行」と動詞が並ぶのに、突然「果」だの「効」だのになる。こういう不整合は、もちろん本物の漢文にだってあるのだろうが、怪しさを醸し出す。

さらに怪しいのが、途中から「考・行・効・幸・皇」と韻を踏んでいるかのようになっている構成だ。これらの字は、日本語ではなるほど韻を踏むのだが、中国語では韻が合わないのである。例えば「皇」は、hwang あるいは ghuang などのような読みになり4、カタカナで表せば「ワン」とか「ファン」といった音になるが、これは他のどの字とも韻が合いにくい。他も似たりよったりで、これらの字が選ばれた理由を韻に求めるのには無理がある。もし「考・行・効・幸・皇」で韻を踏ませているのだとするならば、それはこれが日本で作られたことを意味する。

念のため、中国語のサイトでこれらの言葉を検索してみたのだが、日本で知られる言葉として紹介するものくらいしか見当たらない。以上を考えると、やはりこれは日本で作られたとするのが妥当だろう。

おわりに

調べがついたのはここまでで、これ以上のことは手がかりもなく、調査を断念せざるをえなかった。まぁ、どっかの誰かが思いつきで作ったであろう言葉を必死になって追いかけるのもムダといえばムダなのではあるが、この種の、いっけんそれっぽいものを、それはそれでよしとする、という風潮に抗っておきたい気持ちでつい時間を費して調べてしまった。よいもの・正しいものを誠実に追い求めることこそに価値がある、と思っていたいのだ。

センスの無い改作を咎めた立場でなんだが、「百虚は一誠に如かず」であるべきなのであって、「一誠は百虚に如かず」、ましてや「百ハルシネーションに如かず」なんてことにならないよう、精一杯の抵抗を示していきたいものである。


  1. 出典が由緒正しくなくとも、誰が作ったものか分からずとも、いい事を言ってるのだからそれでいいではないか、という人も出てきそうだが、私はこれをよい言葉だと少しも思っていない。見なき考に意味があるとは思えないし、考なき行は危なっかしくてしょうがない。そもそも見が行を含みうるのは既に述べた通りである。さらに、「百行不如一果(効)」あたりから、何を言っているのかもはやわからない。成果が出なければ実践は無意味と言いたいのか、それとも成果があれば実践は不要ということ?「一皇」に至ってはまともな解説が見当たらない。こんな言葉をありがたがるくらいなら、“If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.” の方を選ぶ。こっちの方がよほど実践的だ。 ↩︎

  2. それぞれネットで見つかる用例である。リンクをいちいち張るのは控えておく。 ↩︎

  3. もっともネット記事の常として、この付け足しが本当に2009年3月13日になされたものかどうかは定かではないのだが。 ↩︎

  4. 韻典網調べ。 ↩︎