「修理する権利」は「遊ぶ権利」である

修復することで生まれる遊び

先日ぼんやりとテレビを観ていたら、Eテレ『おとな時間研究所』という番組で、金継ぎのやり方を特集していた1。番組中、割れた白無地のソーサーを金継ぎしたものを見て司会の常盤貴子が、いままではソーサーとしてしか使っていなかったものが、そうじゃないものに見えてきて、他のものを置いてみたくなる、自由度が増した気がする、といった感想を述べていた。

「おおらか金継ぎ 器と人生を繕う」『おとな時間研究所』1より

元々のソーサーはどこからどう見てもソーサーにしか見えなかったが故に、カップを乗せる以外の機能を見出すことは難しかったのだろう。それがいったん壊れてしまうことによってソーサーという役割も併せて破壊されたのではあるまいか。金継ぎによって直したことで、それはただの皿となることができたわけだ。

似たような話はあちこちで見聞きする。即座に思い出したのは、大名にして茶人であった古田織部の生涯を題材とした漫画『へうげもの』のこの場面だ。

『へうげもの (9)』

山田芳裕 著(講談社, 2009)

「第九十五席 恩 AND 怨」『へうげもの (9)』より

漫画では織部が「余計な『箔』が失せ」た、と言っているが、ここでいう「箔」は「束縛」とも読み替えられよう。ただの皿がソーサーという役割に束縛されていたように、 大名物おおめいぶつという箔が、楢柴を「楢柴」として束縛していた、ということがここでは描かれている。 (あくまでも漫画の中の話ではあるが)

『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』

Miguel Sicart 著, 松永伸司 訳(フィルムアート社, 2019)

束縛が解かれることによって何が生まれたのか。ここでは、遊びの余地が生まれたのだ、 と解釈してみたい。つまり、本来の用途という束縛を解くことで、 それを自由に使ってよい、遊んでよい、と思えるようになった、ということだ。 常盤貴子の言葉にあった「他のものを置いてみたくなる」というのはつまり、 遊び心を誘われたのではなかったろうか。

『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』という書籍で、著者の Miguel Sicart は遊びの定義の一つに「遊びは流用的である (appropriative)」を挙げている。ここで “appropriation” は、訳者の松永によれば「ある事物をその本来の文脈や用途から外れて使用することを指す」。つまり Sicart の定義では、本来の用途から外れようとすること自体が「遊び」である。

ただし、“appropriation” という言葉には松永が指摘する以外にも、「私物化する」という意味がある。Sicart は先の定義の例として、例えば駐車場のような公共の場での遊びを挙げ、そうした遊びはその「場所を乗っ取り」、「実質的に制圧する」ものであるとしており、やや破壊的なイメージを見出していることをうかがわせる。つまり、文脈の破壊そのものを、「遊び」という行為の中に含んでイメージしていることをうかがわせる。

一方で金継ぎされたソーサーの例は、まず意図せぬ文脈の破壊が起き、それが修復されたことによって「流用」が促され、そこから遊びが始まっていく。この場合、遊びという行為の中に含まれる「文脈の破壊」の割合は、 Sicart の定義に比べると小さいように思える。

なので、Sicart の遊びの定義には小分類を付け加えられるのではないかと思う。すなわち、「遊びは流用的である」といったとき、文脈の破壊をも含む能動的な意味合いの「流用」に並べて、破壊され(かつ修復され)た状態から受動的・応答的に始まる「流用」もある、と補足したい。金継ぎされたソーサーに「他のものを置いてみたくなる」のはまさしくこれに該当する。

修復は束縛を緩める

こう定義してみると、破壊と修復から始まる「遊び」は、ややもすると受動的で、自分を安全圏に置いたおとなしい遊びであるように感じられる。しかし子供の遊びだって、あやとりやお手玉のような比較的おとなしいものから、かんしゃく玉の火薬を集めて爆弾を作ったりするような危なっかしいものまでいろいろある。同じように、束縛の解き方にも強弱があると捉えた方が、遊びの実態をよりよく把握できるのではないかと思う。

ソーサーの例でいえば、割れたソーサーの破片を別の何かとして流用しようと発想するのは簡単ではないが、継がれたソーサーを、少し役割の異なる〈皿〉と見立ててそれを流用するのはさほど難しいことではない。金継ぎによる修復を経て、機能の一部を回復することによって初めて遊び心を誘う準備が整った、と解釈できるのではないか。

同じことは『へうげもの』の楢柴にも当てはまる。割れたままではただの陶片に過ぎないが、「修復された楢柴」として再び茶入れとしての機能を回復することで、新しい良さが見出された。修復は、元の束縛を壊さずに緩めることによって、遊びの余地を生み出しているのだ

『へうげもの』には、積極的に箔を壊し、遊ぶことを通じて世の趨勢に抗う茶人達の姿も描かれている。実在する茶碗「須弥(別銘 十文字)」を題材としたエピソードでは、織部らは名物の大井戸茶碗を十文字にわざわざ割ってから、割り跡が目立つように朱で継ぐのだが、これを山田芳裕は、数寄すき = 遊びを解さぬ徳川の権勢に対する織部らの抵抗の一端として描いている。

『へうげもの (17)』

山田芳裕 著(講談社, 2013)

「第百七十八席 死して屍拾う者なし」『へうげもの (17)』より

ここでの織部らの行為も、割った後に修復し、茶碗としての機能を回復する、という見込みがあってこそのものではなかったか。継いだ茶碗だからこそ、そこに面白みを見出せるのであって、ただ茶碗を壊して出来た破片から遊びを見つけることは簡単ではない。破壊行為は確かに束縛を解くかもしれないが、人を遊びに誘うにはハードルが高い。破壊に修復を伴わせ、束縛を壊すのではなく緩めることで、遊びやすくすることができるのである

「第百七十九席 Jana Gana Mana」『へうげもの (17)』より2

少し話は逸れるが、人為的に壊さず、そもそも壊れているものを相手にした遊びという例もある。本阿弥光悦の赤楽茶碗「雪峯」は、おそらくは窯の中で焼くうちに出来てしまった大きな火割れを漆で継ぎ金粉を蒔いて仕上げたもので、先のソーサーや楢柴と異なり、こちらには壊れる前の本来の姿がない3

そういえばこれは伝聞だが、世の中には重要文化財級の天目茶碗を、ご飯を食べる椀として普段使いしている人がいるのだとか。人間も超越してくると、「壊す」だのなんだのと意気込まずとも自由闊達に遊べるのだろう。あるいは先の Sicart の appropriation のうち、「私物化」の意味合いがむしろ強めに出た事例とでも捉えられようか。そうした、「束縛の破壊」すら超越した遊びもあるにはあるのだが、その域に達するのはなかなか難しそうだ。

話を戻す。本稿の主張は既に述べたように、束縛を緩めることが遊びを誘発する有力な手段の一つであり、そのきっかけとなりうるのが、破壊の後の修復にある、ということであった。破壊は、ソーサーを落として割ってしまったり、経年劣化で壊れてしまったり、場合によっては意図的に壊したりすることによって起きるが、いずれにせよその後に「修復」という手順が続くことで、本来の用途という束縛を緩め、人を遊びへと誘うのである。

そのためには、それを修復できるという安心感が重要になってくる。

修復できる、というセーフティネット

例えばねじ回し片手に家電製品を分解修理するのも、遊びの一端と考えることができる。あれもまた、完成品という束縛をいったん解く行為であるからだ。そして再び組み立て直して本来の機能を回復させることができれば、もちろん本来の用途へと立ち戻るわけなのだが、それはけして元通りになる、ということを意味しない。それは「修理された製品」として、壊れる前までとは少し異なる感覚を私たちに抱かせるのだが、それは何だろうか。

様々な製品の修理情報の共有・公開を促進し、また修理のための工具や部品を販売する iFixit は、その企業理念として「もしそれを修理できないのであれば、それを所有していることにはならない (If you can’t fix it, you don’t own it.)」という言葉を掲げている。この理念に沿っていえば、修理することでそれを真に所有していることを私たちは実感できるのであり、「私物化」の意味での appropriation を可能とするのである4。もう中古品として売ることはできないかもしれないし、売れたとしても二束三文にしかならないかもしれない。しかし、であるからこそ、ちょっとぞんざいに、よく言えば大胆に扱えるようになる。たとえるなら箔の落ちた楢柴のようなもので、いままでよりも少し気軽に遊べるようになるのである。

自分の手で分解修理することにはまた別の価値もある。次に壊れてもまた直せるだろう、という安心感をもたらすからだ。また修理の過程でその仕組みや内部構造についての知識を得ているため、今後の使い方にも新たな選択肢を生み出しうる。さらには、修理できたということは、次はそれを改変することも、あるいはできるかもしれない。修理とはそうした安心感やさらなる自信、あらたな可能性をもたらす行為であり、さらに束縛を緩め、ますます大胆な遊びへと人を誘うのである。

分解の楽しさもまた、正しくやればそれを元の姿にいつでも戻しうる、というある意味でのセーフティネットがあることに起因するだろう。元に戻せなかったとしても、それは製品という束縛を破壊的に解き、部品を素材へと還元する、強い意味での appropriation であるのだが、元に戻せば素材それぞれの機能は保全されうるという安心感は、束縛を少しずつ緩めていく手段を私達に与えてくれるのである。

であるが故に私は、分解できず、修復可能性もないものをあまり好まない。束縛を解いていく楽しみを見出しにくいし、あるいは破壊的に素材へと還元し、新しいものを組み立てるという遊びの可能性も与えてくれないからだ。私がオープンソースソフトウェアを日常的に好んで使うのもこの理由による。それはいつでも私に遊びの可能性を与えてくれるのだ。

「修理する権利」は遊ぶ自由を保証する

ソフトウェアの世界では、GNU プロジェクトや Linux などに代表される、フリーソフトウェア運動やオープンソースソフトウェア運動の高まりによって、自分が手にしたソフトウェアの中身を知り、それを改変・改善する自由の重要性が早くから議論され、今日の隆盛を迎えている5

修理する権利: 使いつづける自由へ

アーロン・パーザナウスキー著(青土社, 2025)

ではハードウェアの世界ではどうか。自動車や家電製品ではブラックボックス化した電子部品が増え、 修理可能性は低下の一途をたどっている。スマートフォンや一部のノート PC はバッテリーの交換すらメーカーによって厳しく制限されているし、実装密度を上げるためにすべてが一体化されるようになり、メモリの交換あるいは増設すらできないものも珍しくない。 修理するくらいなら買い換えよ、というのがメーカー側の発するメッセージである。

こうした中で世界的に注目を集めているのが「修理する権利(Right to Repair)」である。この権利は、消費者が購入した製品を、その製品の製造元以外の個人や修理業者が修理することを認め、そのための部品や必要な情報の開示を製造元に義務づけよう、というものである。

現在これを法制度化する動きも出始めている。中でも積極的なのはフランスで、 2020年に「廃棄物と循環経済との闘いに関する法律」(通称「循環経済法」)を制定し、その中で修理利用の促進を目的とした各種施策を設定している6。 2021年には一部の製品カテゴリについて、その修理しやすさを10点満点で表した「修復可能性指数(Repairability Index)」の表示が義務化された。日本ではまだ「修理する権利」を重視する施策は実現していないが、「循環経済(サーキュラーエコノミー)への移行加速化パッケージ(案)」の中で、 EU での修理権に関する議論を参照しつつ、法制度化へ向けた議論が検討されている7

これらの議論では、修理する権利は主に経済や環境問題と関連づけられている。それはもちろん悪いことではまったくないのだが、本稿でここまで述べてきたように、私にとって修理する権利とは、そうした社会問題とはまた別の、生きるということに関わる、本質的なものなのである。

ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み

ヨハン・ホイジンガ著(講談社, 2018)

ヨハン・ホイジンガは人間を「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」であるとし、遊びが人間に特徴的な性質の一つであり、人類文化の重要な源であると説いた8。本稿の冒頭で紹介した Miguel Sicart はホイジンガの議論を部分的に批判しつつも、『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』の序章でこう述べている。

わたしたちが遊ぶのは、わたしたちが人間だからである。(略) 遊びには、わたしたち自身──どうなりたいのか、あるいはどうなりたくないのか──があらわれる。遊びは、わたしたちが真に人間らしくあるときにすることである。松永訳を福地が改訳9

私にとって、ものを分解したり修復・修理したりする権利は、より善く生きる上で外すことのできない、極めて重要な権利である。修復という行為は私達を取り巻く有象無象の束縛を緩め、それを真の意味で我がものとする大事な過程である。それは、遊ぶことこそが、生きていく上で極めて大事な行為だからである。

最後に Sicart の言葉を〈流用〉して、本稿の結語とする。

わたしたちが修復するのは、わたしたちが人間だからである。
修復は、わたしたちが真に人間らしくあるときにすることである。


  1. おおらか金継ぎ 器と人生を繕う」『おとな時間研究所』, NHK Eテレ, 初回放送 2025.05.02 ↩︎ ↩︎

  2. ちなみに漫画では、継いだ茶碗はこの図のように、後に飯を盛る椀として使われる。日本で「井戸茶碗」として知られる椀は朝鮮半島から輸入されたもので、もともとは茶ではなく飯を盛る椀として使われていたものが茶道具に転用されたというから、これはむしろ本来の用途に戻っているのだが、遊びを重ねることでルーツに戻った、面白いエピソードであろう。 ↩︎

  3. なので「修復」と呼ぶことはできない。本論考の対象からは外れてしまうのだが、これはこれで面白い題材となるだろう。「本来の姿」は想像するより他なく、それもまた別の遊びを誘発する。ミロのヴィーナスの欠けた頭や腕は、ヴィーナス像そのものの鑑賞を超える興趣をかもしだす。 ↩︎

  4. 手をかけて修復することで、対象に対する愛着が湧く (attachment)、ということもいえるだろう。愛着が湧けばそのぶん、もっと使い倒してやろうという気になり、それがより大胆な遊びへとつながるからだ。そう考えると Sicart のいう “appropriation” の「私物化」という意味合いも、さらに肯定的に響くように思える。 ↩︎

  5. GNU プロジェクトおよびフリーソフトウェア運動の創始者である Richard M. Stallman がソフトウェアの自由に目覚めたきっかけの一つは、ネットワークプリンタの不具合に対処しようとしたことだった。 Sam Williams and Richard M. Stallman “Free as in Freedom (2.0): Richard Stallman and the Free Software Revolution” Free Software Foundation, p. 1, 2010 ↩︎

  6. 令和5年度経済産業政策関係調査事業(モバイル機器の修理市場等における競争環境整備の在り方に関する調査)報告書」みずほリサーチ&テクノロジーズ, p. 47, 2024 ↩︎

  7. 循環経済(サーキュラーエコノミー)に関する関係閣僚会議(第2回)」を参照。 ↩︎

  8. ホイジンガは “homo ludens” という言葉を、“homo faber”(作る人)という言葉に対置させている。この言葉はアンリ・ベルクソン『創造的進化』に由来するもので、ベルクソンは人間の特徴を、ものを作ること、特にものを作るための道具を作ることにあるとしている。これに倣うと、私なりの人間の定義は “homo reparans"(修理する人)とでもするべきかもしれない ——などと考えていたら、Elizabeth V. Spelman の著書 “Repair: The Impulse to Restore in a Fragile World” (2002) でまさしくこの言葉が使われているらしいことを、本稿の脱稿直前になって見つけてしまった。未読なのだが、人間の持つ修理への根源的な欲求や衝動について論じたものらしい。手に入り次第、あらためてこのことは論じてみたい。 ↩︎

  9. 原文ではここは “Play is what we do when we are human.” と書かれている。これはシラー『人間の美的教育について』中の有名な一節“Der Mensch spielt nur, wo er in voller Bedeutung des Worts Mensch ist, und er ist nur da ganz Mensch, wo er spielt.” (人間は、言葉の完全な意味において人間であるときのみ遊び、遊ぶときのみ完全に人間である) を意識した一文と思われたので、単に「遊びは人間がすることである」とするよりかはもう少し強い意味を込めた訳の方がふさわしいと考え、僭越ながら改訳を施した。 ↩︎