SNS から距離を置くことにした

ここ最近、思うところあって SNS からは距離を置くようになった。投稿はほとんどしなくなったし、タイムラインを閲覧することも少なくなってきた。

理由は様々で、仕事が忙しくなったということもあるし、Twitter が X になってからのゴタゴタも原因の一つではあるのだが、最大の理由は、Twitter を始めとする SNS が、私にとって居心地のよい空間ではなくなった、ということにある。

話を大きくするならば、SNS という存在そのものが、どうも人類社会の幸福に寄与していないのではないか、とも思うようになった。これは Twitter の運営が変わったこととはあまり関係ない。 SNS という仕組みそのものに問題がある、と思えてしょうがないのである。 Twitter のアカウントを閉じて Bluesky など他の SNS に移った友人も少なくないが、私は問題の根源はイーロン・マスクではなく、 SNS という仕組みそれ自体にあると思っているので、Bluesky のアカウントは作ってあるものの、ほとんど使っていない。

承認欲求増幅装置としての SNS

SNS は思うに、人が持つ承認欲求、つまりは〈わたし〉を見て欲しい、という欲求を、醜悪なまでに増幅させる装置として機能するようだ。そのために、人の思考や内面を引きずり出し、さらけ出す力が強く働き過ぎている。欲求を満たすために〈わたし〉の中の、わざわざ人に見せなくていいような部分までをも、タイムラインすなわち公共空間であらわにさせようとするのだ。

もちろん、自分の作品や、よく考えた上での意見を発信して自分を知ってもらうのは悪いことではあるまい。なのだが、SNS は人をそれだけにとどまらせず、なんかしら余計なことを言わせようと振る舞っているかのようで、それが様々な問題を引き起こしているように私には感じられる。

『社会はなぜ左と右にわかれるのか―対立を超えるための道徳心理学』
ジョナサン・ハイト著, 高橋洋訳(紀伊國屋書店)

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かくいう私自身、何度かいわゆる「バズり」を経験した際に感じたのだが、バズりによって広く自分の存在が認知された気分を一度味わうと、ただの数字にしか過ぎない「いいね」や「リツイート」の数が増えていくことに高揚感を覚えるようになる。そしてさらに何かをつぶやくことで、もうちょっとだけその数を増やしてやろう、という誘惑が生じる。「いいね」の増加傾向が鈍ってくると、なにかをさらにつぶやいてテコ入れした方がいいのではないか、などど考えてしまうし、同じ傾向のネタを投稿しても反応がいまいちだったりするとやきもきさせられたりする。一度「いいね」が増えていく快感を知ると、さらなる「いいね」を求めてしまうようになるのだ。

ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』によれば、人間というものは、他人が自分をどう考えているかを無意識に気にしており、自分でも気づかない内に行動がそれに支配されているという。同書の第4章では、マーク・リアリーの「ソシオメーター理論」が紹介されている。これは、人の自己評価は、自分の能力や資質云々よりも、社会から自分がどう見られているかの尺度(ソシオメーター) によって定まるものであるという説である。要するに、「いいね」の数で自分のツイートの価値を図るようなものである。

たとえ自分はそんなことはない、人の意見になんか左右されない、と思っている人であっても、程度の差はあれ他者からの評価を強く気にかけてしまうことが、様々な心理学実験の結果から示唆されている1。その他者が目の前にいなくとも、またそれが誰なのかわからない不特定の存在であっても、自分を評価する他者が存在するという前提があるだけで、そうなってしまうのである。

『「認められたい」の正体―承認不安の時代』
山竹伸二(講談社現代新書)

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それは悪いことばかりではない、と考えることもできる。人の目を意識するからこそ我々は自分の行動を律することができるという側面もある。それどころか、道徳というものは抽象化された「人の目」がなければ成立しないかもしれない。現代人の承認欲求について論じた山竹伸二は著書『「認められたい」の正体』で、「自分の行為が正しいか否か、世間や社会一般の人々から認められるか否か、他者一般の像を想定してシミュレーションすることがあるはずだ」と述べ、誰の視線にも直接さらされていないような状況においてもなお、人は一般的他者から見たときの評価を想定し、自分の行動を律することがあるとしている。道徳なんてものはおそらく、こうした「人の目」を自分の内に持って初めて機能するものだろう。

一方、同書で山竹は、承認の獲得のみを目的としたコミュニケーションに現代人が駆り立てられてしまう状況を指摘している。山竹はそうしたコミュニケーションのあり方を「空虚な承認ゲーム」と呼び、以下のように述べている。

自分は受け入れられているのかどうか、認められているのかどうか、強い不安に襲われるようになる。そのため、自分の考えや感情を過度に抑制し、本当の自分を偽って家族や仲間に同調し、無理やりに承認を維持しようとする。それはただちに「空虚な承認ゲーム」となり、必ず自己不全感がつきまとう。

SNS での「いいね」獲得ゲームは、狭い仲間内の承認の獲得を目指したものではないが、そうでないが故に、よりいっそう空虚なゲームになることがあるように思う。なにせ、自分がいったい誰から承認を獲得しているのかはっきりせず、ゲームをどのようにプレイすれば「いいね」を増やせるのかも、よく分からないのだ。そしてゲームを進めていく内に、「いいね」してくれる仮想的な集団をいわば〈仲間〉として、勝手にイメージし始めてしまう。そしてその自分が作り出した〈仲間〉に「いいね」してもらうにはどうすればよいのか、などと考えてしまうのだ。

そのためか、「いいね」を増やしたい、というただそれだけを目的としてつぶやこうとするときに、醜悪なものが顔をのぞかせる。少しでもよく見せたい、少しでも目立たせたい、少しでも多く「いいね」して欲しい。本来の表現欲求から外れていくと、それはどんどんおかしくなっていく。

SNS はさらに厄介なことに、たかだか140字で効率よく「いいね」を求めるあまり、表現を先鋭化させたくなる力を持っているように感じられる。より楽に、より効率的に評価を集めるために、短く圧縮した言葉を必要とするようになり、キツい言葉やトゲトゲした言葉を使いたくなってしまう2。他の表現媒体よりも、大事なたがが外れやすいのだ。

かつて、筋萎縮性側索硬化症 (ALS) の認知度向上を目的としたチャリティー行為の一種として、バケツ一杯の氷水を頭からかぶる様を撮影した動画を投稿する「アイスバケツチャレンジ」というのが流行ったことがあったが、あれも次第に氷の量がエスカレートしたり、極端な状況でのチャレンジを競いだしたりと、本来の目的から大きくそれた投稿が増え、挙句には死者が出るまでに至った。

あれと同じで、本来の目的を見失ったときに箍は外れやすい。私自身もその衝動にかられるときがあるし、 SNS 上での対話を繰り返す内にどんどん言動がおかしくなっていく人々を見るにつれ、SNS は構造的に危険なものである、という疑念が尽きないのである

『モヤモヤする正義 感情と理性の公共哲学』
ベンジャミン・クリッツァー(晶文社)

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『21世紀の道徳』『モヤモヤする正義』で公共の場における理性に根差した議論の重要さをあらためて指摘したベンジャミン・クリッツァーは、 SNS について以下のような経験を吐露している。

わたしとしても、自分の公共性を育てる足がかりとなってくれたという点では、 SNS やインターネットに対して恩を感じるところもなくはない。だが、自分の感情や認知もプラットフォーマーやメディアによって多かれ少なかれ操作され、他の人々と同じように自分も愚かな意見や短絡的な表現を引き出されてきたという事実は、振り返ってみると腹立たしい。それはわたしの自律を侵害してきたのだ。 (強調箇所は原文では傍点による)

2冊の著作で、多数の先行する議論を参照しつつ、心理学や認知科学上の知見も取り入れた上で、理性的な対話の重要性を重ねて指摘し続けてきた氏ですら、自律を侵されたと述べている。私なぞ、タイムラインの流れにうかうかと乗っかって、いらぬことをどれほどつぶやいてきたことか。つぶやくに至らないまでも、タイムラインに跋扈する言動に心をかき乱され、なにかを言わずにいられない衝動にかられることはいまでもある。 SNS は私から愚かな衝動を引き出す装置として機能してしまうのである。

そうである以上、SNS という装置に自分がこれ以上振り回されないために、距離を置くことにしたのだ。 SNSは、私にはとても使いこなせそうにない。

それでも SNS アカウントを維持する理由

そんなわけで、SNS からは距離を置くことにしたのだが、一方で、自分の考えたことを書く場所は確保しておきたい。ということで今後は SNS での発信は止めて、自分のホームページに書くことにした。まぁ要するに、ブログに戻ったようなものである。「自分の考えたこと」といってもなにも高尚なことしか書かないということではなく、今までと同じく馬鹿々々しいことも(というか主にそうしたものを)書いていくつもりだが、この形式なら、衝動にかられて反射的に書くような醜態は、SNS よりかはいくぶん減らせるだろう3

さて、であるならば、SNS のアカウントなんかはとっとと消してしまえばいいではないか… とは何度も思うのだが、一方で、一度ネットに送り出した情報はできるだけ消さないで残しておくべきである、という昔からの因習が、アカウント削除を躊躇させるんだよね… 探していた情報に辿り着けそうなリンクを見付けたと思ったらリンク先が消えていて 404 Not Found になっていると残念に思うでしょう。アカウントを消すとあれをあちこちで引き起こしてしまう、というイメージがどうしてもついて回るのである。私のツイートなんて消えたところで誰も残念に思わないよ、自意識過剰だよ、とは思えども、どうしてもそれに踏み切れないのだ。

そんなわけで、自分の書いたものを消したくないというセンチメンタルな感情を差し置いたとしても、自分のツイートやブログ記事をウカウカと消す気にはなれないのである。

これからの SNS の使い方

というわけで SNS のアカウントは今後も残しておくつもりなのだが、ただ残しておくのもなんなので、このホームページで何か情報を更新したときにその通知を SNS ですることにしようと思う。まったく同じことを Twitter と Bluesky と Facebook で通知するという不器用なことをすることに今後なるだろうが、私の書くことに興味を持っていただける方に、更新情報をお届けする手段として使うこととしたい4

SNS で誰かと議論したりして面倒ごとを背負いこむようなことは避けていくつもりだ。


  1. Leary, M. R. (2005). Sociometer theory and the pursuit of relational value: Getting to the root of self-esteem. European Review of Social Psychology, 16(1), pp. 75-111. ↩︎

  2. こうした表現の先鋭化は、自分がなにがしかの陣営と対立している、という意識があるとさらに強化されるようだ。対立陣営がキツい表現で「いいね」を集めているなら、自分達はそれをさらに越えた地点で戦わねばならない、そんな気持ちが両者にあると、互いが競い合うように先鋭化を推し進めてしまう。たいていの場合、対立陣営のキツい表現は悪しき行為で、自分のキツい表現はそれを矯めるために仕方なく行っていることだ、となるから、歯止めが効かなくなる道理である。 ↩︎

  3. もっとも、ベンジャミン・クリッツァーは『モヤモヤする正義』で、ブログの置かれている状況についても「人の感情を煽り刺激するタイトルを付ける、『底辺への競争』と表現すべき事態が発生している」と述べ、まともに機能していないことを指摘している。これはまったくその通りと私も思うのだが、それでも SNS に比べればいくらかはマシだと思うことにしたい。なお、先の記述は、アカデミアにおける議論がブログや一般書籍に比べて「厳密で信頼性のある知識や理解を産出」しやすいという主張につながっているのだが、学術論文の方でも、学会でのウケ狙い発表の横行という似た事態は起こりうるものである。 ↩︎

  4. なお、RSS も引き続き機能しているので、更新情報のみお求めの方はそちらをご利用されたい。 ↩︎