なぜニュートンはリンゴの落下から万有引力を発見できたのか
アイザック・ニュートンと言えば、林檎が落ちるのを見て万有引力を発見したという逸話が有名だが、どうしてリンゴの落下が万有引力と結びついたのか、とは誰もが一度は疑問に思うところだろう。
それのどこが疑問なのか、と思われる方のために補足しておくと、リンゴを地球に引きつける力、すなわち「重力」の存在を仮定すると落下運動を説明しやすい、というのはニュートン以前からもよく知られていたので、リンゴが落ちるのを見てそこに見えない力を発見した、という説明は間違っている。ニュートンの万有引力とは、同じ力がリンゴ側にも備わっている、すなわちリンゴも地球を引き付ける力を有しているという発見であり、だからこそ万有引力とそれは呼ばれている。
では、ニュートンは本当に、リンゴが木から落ちるのを見てそれを発想できたのだろうか。
この疑問について、ニュートンの友人であったウィリアム・ステュークリ (William Stukeley) は後年このような回想を記している。
夕食のあと、あたりはあたたかだったので、私達は二人で庭園に入ってリンゴの木の木陰でお茶にした。色々な話をしているうちに、彼はあの時と同じ状況だ、と言った。そう、かつて万有引力という考えが閃いたときだ、と。 「なぜリンゴはいつも地面に対して垂直に落ちるのだろう」彼が座って考え込んでいたときにリンゴが落ち、彼はそう自問した。「なぜ横や上に行かずに、いつも地球の中心に向かって行くのだろうか? その理由はもちろん、地球がそれを引きつけているからだ。質量こそがその引力の源であり、地球の質量が及ぼす引力の合計は地球の端ではなく中心にあるはずだ。だからこそリンゴは垂直に、つまり地球の中心に向かって落ちるのだ。質量が質量を引きつけるのであれば、引力は質量に比例するはずだ。ならば地球がリンゴを引きつけているのと同様に、リンゴも地球を引きつけているに違いない。
しかしこれはいくらなんでも整理され過ぎているように思われる。リンゴが常に垂直に落ちることを不思議に思ったことについては、後述する理由で納得できるのだが、そこから質量と質量が互いに引きつけ合う、すなわちリンゴも地球を引きつけている、という万有引力の本質に到達するまでの間には大きな飛躍があるように感じられる。
数学者の矢野健太郎はこの疑問について、著書『すばらしい数学者たち』の中で論じている。やはり数学者である遠山啓の説として、パーティなどで万有引力発見のいきさつについてうるさく聞かれることが多かったので、「リンゴが落ちるのを見て」という適当な逸話であしらっていたのではないかという身も蓋もない説を紹介しているが、それとは別に矢野自身は、ニュートンはリンゴが落ちるのを見て、「リンゴの実は木から落ちるのに、月はなぜ落ちてこないのだろう」と考え、そこから万有引力の想を得たのではないか、と自身の仮説を述べている。しかしこれも間の飛躍が説明されていない。
ではニュートンはどのように考えたのだろうか。
当時すでに、月は地球の周りを回っていて、その運動を説明するためには、月が地球に向かって引きつけられている、と考えると都合がよいことは知られていたし、同じことが太陽を中心として周回する惑星の運動にも言えて、なおかつその力は太陽と惑星との間の距離の二乗に反比例することも、ケプラーらの研究によってわかっていた。しかしその力が何なのか、これがわかっていなかった。ケプラーは後年、光と同じように距離によって減衰する力を仮定していたようだが[Barker & Goldstein 1992]、神秘主義的な宇宙観とあいまって、太陽特有の力であると解していた節がある。
そしておそらくニュートンは、太陽が地球を引きつける力と、地球が月を引きつける力とは同じだ、ということには気付いていたのだろう。つまり、天体の周回運動はすべて同じ原理で説明できそうだ、そしてそれが統一的な原理として、あまねく天体すべてに働くのではないか…とは考えていたのではなかろうか。ではそれがいったいどこまで適用できるのだろうか…
そこにリンゴが落ちてきた。
その瞬間に、リンゴを地面に引きつけた力、すなわち重力と、月を地球に引きつけた力が同じであると考えたらどうか、と着想したのではないか。太陽と地球との関係が、地球と月との関係にも適用できるのであれば、同じことを地球とリンゴとの関係に適用してもいいじゃないか、と。
そこからはさほど大きな発想の飛躍を必要としない。周回運動と落下運動、いっけん異なる二つの運動の違いはどこから生じるのかを考えれば、リンゴはなぜ横に動かないのか、という問いの源も説明がつく。月は鉛直方向に対して横向きに動いているからだ。リンゴが地球や他の物体を引きつける力はどう考えても微力だが何故か、それは質量の差と考えればよい。このあたりの思索を後に整理した結果が、ステュークリが残したニュートンの回想なのだろう。
以上の説明を私がもっともらしいと考えるのは、それが、二つの事象が同源である、という着想から始まっているところにある。経験的に言って新しいアイデアというのは、別々に考えていた二つのことがつながる、と気付いたところから始まることが多い。
任天堂の宮本茂は、「アイデアというのは複数の問題を一気に解決するものである」と述べたそうだ。任天堂の社長として宮本の仕事を見ていた岩田聡は、それはゲームに限った話ではなく、「これとこれを組み合わせるとこういうことが起こるぞ、っていう」着想こそが価値を持つと思うに至ったと述べている。もちろん、普段からの問題意識や地道な試行錯誤があってのことであることを宮本は別記事で述べている。
あとは、異質なことが結びつくきっかけをどうすれば得られるか。これについてはぼんやりとした仮説ではあるが、そのどちらかについて思索を深く巡らしているだけでは訪れず、それらから意識が離れたときではないかと思っている。どちらかに意識が集中していたら、そこから見れば異質であるもう一つの問題意識に考えが至らない、というかその存在に気付けないのだろう。リンゴの実が落ちた音に気をとられ、一瞬天体の事から意識が逸れる、それが万有引力という発想を導いたのではないか。
欧陽脩はよい文の着想を得る場所として「馬上・枕上・厠上」の「三上」を挙げているが、これらもまた、意識の過度の集中を防ぐ意味があるのではなかろうか。李白が酒を愛したこともまた故あってのことと思われる。