「本は読めないものだから心配するな」「殺人ジョーク」「バベルの図書館」
管啓次郎先生より、ちくま文庫入りした『本は読めないものだから心配するな』をいただいた。僕はかつて明治大学の新領域創造専攻に在籍していて、管先生とはそこで一緒になった。僕が指導していた修士学生の副査をしていただいたこともあった。たしかその頃だったかと思うが、専門書をうまく読みこなせないと悩んでいた学生にご自身の『本は読めないものだから心配するな』を引き合いにして助言されていたのをよく覚えている。
さて、文庫化された同書には巻末に「本を書き写すことをめぐる三つの態度について(文庫版あとがきに代えて)」というエッセイが加わっていた。管啓次郎の散文としては最新作とも言えるこの作品がとても刺激的だった。
同エッセイにはまず、とある本に魅せられた人々が三人紹介される。それぞれ、その本をそのまま書き写したり、あるいは書き写すときに自分の言葉を付け加えて自分だけの版を作ったり、あるいは文言を削ぎ落とすことに苦心したりと、三者三様にその本に向き合う。互いに顔を合わすこともなければその存在を知るでもない。
そこに、四人目が登場する。この人もまた前の三人の営みのことなど全く知らず、独自の取り組みを始める。本文から引用しよう。
作品を構成するひとつひとつの文字を、一枚一枚の半紙に筆を使って書く。するとたとえば四万字の作品だったら、すべてを写し終えたときには四万枚の紙の山に置き換えられているわけ。 (p. 285)
この四人目の営みを読んで即座に連想したのが、『モンティ・パイソン』の「殺人ジョーク」というコントだ。舞台は第二次大戦中のイギリス。ある売れないコメディ作家がある日書き上げたジョークが、読むとあまりの面白さに笑い過ぎて死んでしまうほどのもので、作者本人も書き上げた直後に笑い死にしてしまう。このジョークの存在はやがてイギリス軍の知るところとなり、軍はこれを兵器として転用する作戦を開始する。すなわち、このジョークをドイツ語に翻訳し、対ドイツ軍の決戦兵器として戦場に投入したのである。
この翻訳作業において軍は安全のため、作業にあたった翻訳者一人につき一語ずつしか見せず、文字通りの逐語訳をさせたという。誤って二語見てしまったものは数週間の入院を余儀なくされたというくらいだから、恐ろしいジョークがあったものである。
文章を一文字ずつばらばらにして書写するという折角の素敵なイメージを、単語単位にバラバラにして翻訳することでジョークの内容を理解することを防ぐという「殺人ジョーク」へとつなげてしまった己のアホさ加減にしみじみとしてしまう……のだが、次のことに気がついた瞬間、雷に打たれたような感覚に襲われた。
すなわち、僕らは実のところどうあがいたところで、本とはこのようにしか付き合えないのではないか? つまり、一語一語、さらには一文字一文字という小さな覗き穴を通じて向こうを見るようにしか、本に書かれたことに接近できないのではないか。
そしてときどき、それらの内の数えるほどの言葉がふとつながって見えた時、入院程度で済んだ翻訳者のように、その内容にわずかに触れることができる、本を理解するとはその程度のことではなかったか。
そう思い至ったとき、「本は読めないものだから心配するな」という管先生の言葉は僕にとって、大変な慰めになるのである。
もう一つ、一枚の紙に一文字ずつ記していく、というイメージから連想したのが、ボルヘスの「バベルの図書館」である。この世に存在しうるすべての本が収められているという図書館とそのイメージとがどうして結びつくのかを説明するのはちょっと面倒なのだけどやってみよう。
「バベルの図書館」とは、世に存在可能なすべての本が収蔵された図書館と、そこに住みついて本の渉猟を続ける人々について書かれた物語である。「すべての本」というのはなまなかな話ではなくて、その世界に存在する25種の文字の組み合わせが生み出しうるすべて、であり、その冊数は億とか兆といったケチな数では済まないが、1冊あたりのページ数は410ページと決まっているので、その冊数はとんでもなく大きな数ではあるものの、有限である。
この図書館の凄いところは、真に「すべての本」が収蔵されていることで、例えば未完に終わった中里介山の『大菩薩峠』の続刊だろうが、書かれたという噂のみ残るアリストテレス『詩学 第二部』だろうが、なんでもそこにあるのである。ただし当然ながらそれを見付けるのは不可能で、というのも、繰り返しになるが真に「すべての本」が収蔵されているのだから、目指す本と良く似た本、1字違うだけの本、パロディ本、改作、なんでもかんでもがそこにあるので、その中から目指す本を正しく見付けるのは、藁山に落とした針を探すの言い回しをはるかに越える行いである。というよりも、なにが「正しい」のか分からないのだから、そもそも見付けようがないのだ。
ところで、もしこの世のすべての情報を図書館に収めようとするなら実はあそこまで巨大な図書館は必要ないはずだ。というのも、あれは本のページ数が410ページであるから膨大な冊数が必要なのであって、もし各冊1ページに限定するのであれば、必要な冊数はぐっと少なくなる(詳細な計算は省略するが、200万桁の数から4千桁にまで減らすことができる)。1ページだけの本じゃ意味がないかと思われるかもしれないが、もしある本の2ページ目が読みたければ、それが印刷されている本を蔵書から探せばよいのである。
これを極論するならば、物語世界に存在する25種の文字・記号を1字のみ印刷した25冊の本、いや、25枚の紙があればよい、ということになる。あとはそれを「正しい」順で眺めれば、目的とする本を読むことができる、という訳だ。
てな訳で話はさっきのところまで戻ってきた。我々はもしかしたらそれと同じようにしか、本と付き合うことはできないのではないか。
『本は読めないものだから〜』の中に、これと通底することが書かれている。
本に「冊」という単位はない。あらゆる本はあらゆる本へと、あらゆるページはあらゆるページへと、瞬時のうちに連結されてはまた離れることをくりかえしている。 (p. 13)
これらのイメージを連結させると、「本は読めないものだから心配するな」の地点がおぼろげに見えてくるような気がする。
最後にもう一つだけ蛇足を。言葉の力について考察した箇所で、養老孟司による以下の言葉が引用されている。
おそらく皆さんのイメージは、社会には人間という実体が沢山あって、その間で言葉なり情報なりがやりとりされている、というものだと思います。私は一度そのイメージをひっくり返してご覧になってみたら、と言いたい。つまり、厳として情報なり言葉なりという硬いものが真中にあって、その周囲をふにゃふにゃな人間が動き回っている。アメーバーみたいな人間が、動いている。そういうイメージの方がひょっとしたら正しいんじゃないか。 (p. 62)
ややもすると我々は言葉というのものを、時と場合によって意味の変遷する、実体のないあやふやなものとして片付けたい気持ちにかられるものだが、あやふやなのは人間の方ではないか、というこの転置、「バベルの図書館」で、司書たちが図書館の中のほぼ無限に続く部屋から部屋へとさまよい歩いてはなにか重要なことが書かれている本があるのではないかとそれらを渉猟する姿を彷彿とさせるのである。