「誰も〜する」考
はしだのりひことシューベルツによる1969年のヒット曲『風』(作詞: 北山修・作曲:端田宣彦)の冒頭、
人は誰もただ一人 旅に出る 人は誰もふるさとを ふりかえる
という歌詞中の「誰も」にどうしても違和感を覚える。まぁ歌のことなのでこの種の文法をちょっと逸脱した表現をいちいち気にするものでもないのだが、なぜ違和感を覚えるのだろうか、という興味が出てきたのだ。
ネットで検索してみるとこれを考察した記事に、小島剛一氏の「人は誰も・・・」があり、日本語文法に照らしてそのおかしさを指摘している。氏ははっきりとこれを誤用とした上で、「誰でも」もしくは「誰しも」とするべきだ、と述べている。
文法上の議論については私はまったく明るくないので追うことはできないが、「誰でも」あるいは「誰しも」に置き換えた方が通りがよいという指摘については納得できる。
ただ、では「誰も」が「誰でも」あるいは「誰しも」から「で」や「し」を脱落させた表現なのだろうかというと、それとは違う仮説を私は持っている。
思うに、「誰も彼も」という慣用句のうち、「彼も」を語調を合わせるために落して生まれてしまったのが、この「誰も」なのではなかろうか。だからといってこれが誤用ではない、ということではもちろんないのだが、こっちの方が説明がつきやすいようになんとなく思っている。
その仮説を支持する材料がないかと思って、青空文庫に収録されたテキストやらなんやらを漁ってみたのだが、直接それを示唆するものは見つけられなかった(というか、どんな例が見つかれば直接的な証拠になるかすら見当がつかない)。
さておき、「誰も」を肯定の文脈で使った例がちょこちょこと見つかった。
普通教育を受けた者なら誰も知っているであろう
(丘浅次郎「自然界の虚偽」)
さればとて少女と申す者誰も戦争ぎらひに候
(与謝野晶子「ひらきぶみ」)
誰も之に近づくを避く
(大町桂月「三里塚の櫻」)
誰もそのアトリエには這入ることさへ避けるやうにしてゐた
(堀辰雄「おもかげ」)
誰もみなコーヒーが好き花曇
(星野立子)
それぞれみな誰も眼をぎょろぎょろ開いたまま私の顔を眺めているのだ
(横光利一「時間」)
大町や与謝野の文は否定の意味を含んだものなのでまだ慣用的表現の範疇にあるともいえそうだが、丘や星野のはまったくの肯定文である。
どうやら現代に入って生まれた誤用、ということでもなさそうなので、おそらくはこれに着目した研究があるだろうと思って論文を漁ってみたのだが、どうやら助詞「も」の扱いは簡単ではないらしく、いろいろな論が見つかる。
ただ、冒頭に挙げた歌を聞いたときに覚えた違和感から考えるに、まったく日常語に溶け込んだ表現ということでもなさそうで、時間ができたらもう少し事例を集めて考察してみたい。