なぜ話を難しくしてしまうか

論文や解説記事なんかで、あるいは講演で、哲学や数学などの分野から概念を借りてきて説明したりすると、「なぜわざわざ専門用語を使ったりして話を難しくするのか」と言われたりすることがある。さらには「本当に分っているならもっと平易に言えるはずだ」などと追いうちをかけられたりする。言っている本人の真意がどこにあるかは僕には分からないが、これはかなり酷薄な物言いではある。

こっちだって、自分が言おうとしていることを、自分の言葉で分かりやすく伝えたいのはやまやまである。「頭の良い人は難しいことを簡単に言う」という箴言はとっくに承知なのだ。

ではなぜ難しそうな専門用語の類を持ち出すのか。それはひとえに、そうする以外に自分の考えを的確に伝えることができないからである。つまりは、自分にその力がないことを認めているが故なのである。

偉大な先人があらわした言葉に自分の考えが見事に的確に表現されていることに感銘を受けたとき、その上に自分の考えをなんとかして積み重ねたいと思うのは人の常であろう。そうして築かれた論考を自分の言葉で多くの人に伝わるように表したいと、思わない訳がない。

ところが悲しいかな、どうあがいても先人の言葉にかなわない。言葉をこねくり回してみても、自分が先人の言葉に受けた感銘の万分の一にも届かない。ただただ自分の無力さを噛み締めることとなる。

これはある意味で仕方のないところであろう。例えば「天は人の上に人を造らず」という言葉がある。人がこの言葉を発するとき、それは単に「人は生まれつきの貴賤なし」という意味のみを伝える訳ではない。その言葉が誰によって言われ、またその言葉がどんな歴史を参照しており、その言葉がこれまで社会に対してどのような影響を与えてきたかまでをも、想起させるのである。他の言葉でこれを代替しようとしてできるものではない。

同様に、ある専門用語を引っ張り出してきたとき、単にその言葉が指し示す概念のみを相手に伝えたい訳ではない。その言葉が背負う歴史、与えた影響、周辺概念をも含めて援用しようとしているのである。それらすべてを、短い専門用語一つで想起させられる。圧倒的に高効率なのである。その効率がなければ、生きている間に議論が完了できないかもしれないのだ。

もちろん、そうすることで当面の論考には不要な概念をも引っ張り込んでしまうという弊害もある。「虎の威を借る狐」になりうることも否定しきれまい。もっとスリムに、もっと広く伝わる言葉で言えればどんなによいか、と思う。

そこに「なぜ話を難しくするのか」と言うのは、つまりは「お前はバカだ」と言っているのと同じなのであり、そうなると「バカですいません」としか答えようがないのだ。