問題を可視化する

先日、学生さんが国際会議で発表された論文を紹介する場に居合わせたのだが、論文中で提示されていた問題について「著者はこれを『邪悪な問題』と呼んでいます」と言っていて、しばらく意味が分からなかった。

原文をあたってようやくそれが “wicked problem” のことだと分かったのだが、それでもなお消えぬ疑問が残った。なぜ彼は “wicked problem” とは何か、を調べなかったのか。

“wicked problem” は、「厄介な問題」と訳すことが多い。大阪ガス行動観察研究所の松波晴人氏は

「Wicked Problem」とは、課題もソリューションも明確ではない上に、そもそも「何が問題なのか」を定義することが困難な「問題」である。たとえば、「NASA は今後どういう方向性に進むべきか?」は「Wicked Problem」である。

定義している

これくらいの事は、“wicked problem” でググればすぐに分かる。あるいは適当な訳や定義にまでたどり着けなかったにしても、それがビジネスや学術の分野で使われる熟語である事くらいはざっと検索結果を眺めればなんとなくは推し量れるはずだ。しかし件の学生はおそらくそれが慣用句的なものではないと判断し、“wicked”→「邪悪な」、“problem”→「問題」と逐語訳したのだろう。そしてそれを「分かった」ことにしてしまった。

この種の話は件の学生に限った話ではなく、自分がそれを分かっていない、ということに気付けないせいで、ほんの少しの労力で解決することに無駄な時間を費している、なんてのはあちこちで毎日のように目にしている。ちょっと Excel の使い方を調べさえすれば面倒な計算をせずに済むのに、とか、スチレンボードに紙を綺麗に貼るには、とか、いまどきどんな些細なことでも、どうにか調べがつくものだ。いや、他人のことばかり言っている場合ではない。自分で気付かないままでいる、自分が分かっていないことを、どれだけ放置して生きているのか、見当すらつかない、というのが怖い。

こうした問題は、wicked problem よりさらに厄介な問題として、”invisible problem”(見えない問題)と呼ばれる。我々が、日常的に注意を向けようとしない事象に対していかに鈍感であるかについては、認知科学や神経心理学の分野で盛んに研究されている。一頃話題になった「見えないゴリラ」実験はその好例である。

こうした研究が我々に教えてくれるのは、我々は自身が知らない、分からないということに対していかに鈍い知覚しか持たないか、ということである。そして、社会のいたるところにこうした「見えない問題」は転がっている。それらの存在を我々はまったく分かっておらず、また分かっていないが故にそれを分かろうとすることすらできないでいる。

アクティビストとは、ときに大袈裟な、あるいは少々乱暴なやり方でそうした問題の「見える化」を行う人である。そうでもしないと、ちょっとやそっとのことでは我々の知覚は変わらないのだ。まずはそうやって知覚を変えてくれたことに対して、感謝すべきではないか。

そうやってようやく見えるようになった問題は、すぐに解決できるようなシンプルな問題ではないかもしれない。まさしく「厄介な問題」である事も多いのだ。その厄介な問題を解きほぐすのは次のステージであり、見える化を成し遂げた人から社会が引き継いで取り組むべきことであろう。