19世紀のパリ・下水事情
先に書いた「うらはらな言葉」で取り上げた、渡辺一夫の短文「パリの記念」で紹介されている、1894年に発布されたパリ市の衛生条例に関する記述を、あらためて検討したい。
(パリの便所の壁に打ちつけてあった)その貼り札には、「一八九四年七月十日発布衛生条例」として、「乞い願わくは、貴殿がここに入らるるときに、かくあれかしと期待せらるるがごとくに清潔にして、この場所を後にされむことを。」と記してある。じつに簡潔な名文であって、以上のような長たらしい下手な訳では、とうていこの名文の味はわからない。Prière de laisser cet endroit aussi propre que vous désirez le trouver en entrant. というのが原文である。
この名文を名訳しようと、何度も試みたが、いままでのところどうにもならない。そのうえ、こうした表現に見られる非命令的な、協力を求めるような、真の個人主義的な、つまり社会連帯的な考え方は、日本語にすると妙にだらだらするかもしれないし、変に卑屈になったりするかもしれないと思う。そして、「この芝生に入るべからず。」のほうが、「この芝生に入らないようにしてください。皆のものであり、眺めて楽しむものですから。」よりも、日本人にとって実効があるかもしれぬと考えると、ますます、あの貼り札の文句と、こうした文句をすらすらと書き、しかも衛生条例としてかかげさせている国とに感心する。
この衛生条例について調べてみようとしたのだが、素人調べでは残念ながら条例そのものについてまでは手が回らなかったものの、おそらくこれのことだろう、という歴史的背景が見えてくるところまでは辿り着くことができた。
パリの衛生事情というのは、19世紀末までかなり酷いものだったようで、市民が生み出す排泄物は肥桶に入れられてゴミ捨て場に集積されたためその周囲の悪臭や汚染が大問題と化していたそうだ(参考:パリのトイレの歴史)。一説には市内の道は排泄物やゴミが積もり、外を歩くのもままならなかったとか。なお、服が汚れるのを防ぐためにハイヒールが発明されたという話まであるが、これは眉唾だという説あり(参考:ハイヒールと中世と糞の話)。
さて、そんなパリを擁するセーヌ県の知事として、ウジェーヌ・プベルという人物が1883年に就任する。彼は積年の問題であったパリの環境問題に着手し、大鉈をふるっている。ゴミ収集制度を確立し、牛舎を郊外へと移転させ、そしていよいよその中核であった下水処理問題に、腸チフスやコレラの流行を背景にして取り組んでいる。このあたりの事情は大森弘喜「19世紀パリの水まわり事情と衛生(続・完)」に詳しいが、要は、当時すでに整備されていたパリ市内の下水道に水洗トイレの排出先を直結させる方式を、1894年に法制化し、全面的に導入したのである。
渡辺が見た「一八九四年七月十日発布衛生条例」は、どうやらこれに関係するものらしい。大森の論文によれば、1894年7月10日に国会で制定された「パリ及びセーヌ河の浄化に関する法」の第2条には、
公共下水道の敷設された街路に位置する家屋所有者は,その家屋から排出される固体・液体の排泄物を,地下を通し直接下水道に流出しなければならない。古い家屋には改築工事のために3年の猶予が与えられる。
とあるそうだ。この方式は「トゥ・タ・レグ(すべてを下水へ)」と呼ばれ、様々な反対にあいながらも半ば強引に推し進められていった。反対者の一部は、家屋の改装工事を強制される家屋所有者であった。
渡辺が入手した貼り札が、1894年に制定された法で掲示が定められたものなのかどうかは、調べがつかなかったのでその正体を探るのはまたの機会にしたい。想像をたくましくするならば、件の札は政府が作らせたものとはちょっと考えにくく、むしろ「法の命ずるところに従って、高い金払って整備したんだから、綺麗に使えよ」という家屋所有者の強い思いがこうした掲示を作らせた、といったところではないだろうか。