うらはらな言葉

『高校生のための文章読本』(amazon)というなかなか読みごたえのある本に、仏文学者・渡辺一夫の短文「パリの記念」が収録されている。書かれたのは 1955年ということだが、それを読んで時代の移り変りというか、日本人のある意味での変わらなさを感じてしまった。

気になったのは以下の箇所である。

(パリの便所の壁に打ちつけてあった)その貼り札には、「一八九四年七月十日発布衛生条例」として、「乞い願わくは、貴殿がここに入らるるときに、かくあれかしと期待せらるるがごとくに清潔にして、この場所を後にされむことを。」と記してある。じつに簡潔な名文であって、以上のような長たらしい下手な訳では、とうていこの名文の味はわからない。Prière de laisser cet endroit aussi propre que vous désirez le trouver en entrant. というのが原文である。

この名文を名訳しようと、何度も試みたが、いままでのところどうにもならない。そのうえ、こうした表現に見られる非命令的な、協力を求めるような、真の個人主義的な、つまり社会連帯的な考え方は、日本語にすると妙にだらだらするかもしれないし、変に卑屈になったりするかもしれないと思う。そして、「この芝生に入るべからず。」のほうが、「この芝生に入らないようにしてください。皆のものであり、眺めて楽しむものですから。」よりも、日本人にとって実効があるかもしれぬと考えると、ますます、あの貼り札の文句と、こうした文句をすらすらと書き、しかも衛生条例としてかかげさせている国とに感心する。そして、われわれ日本人も「……すべからず」趣味を脱却しつくすことが肝要であるとつくづく思うのである。

おやおや、と思ったのは、この渡辺の指摘の向こうを張るような意見をこの二十年くらいはよく見かけるからである。くどくどしく同調や自発的協力を求めるような表現はいかにも「日本的」なものであり、もっと直接的に表現すべきであるといった論調は、SNS 全盛時代を迎えてますます盛んであるようだ。

実際、電車が遅れたときのアナウンスなぞはいまや実にクドクドしくなった。強風で電車が遅れた時でさえ、「ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません、お詫びいたします」などとやっている。思えば国鉄時代は職員の無愛想がずいぶんと槍玉に上げられていたものだが、愛想がよくなればなったで、今度はそれが批判されている。

もちろん、現代のこのクドクドしさが、渡辺の望んだ「真の個人主義」から遠いものであろうことは言をまたないのであって、これをもってして渡辺の一文をあてこするつもりは毛頭ない。私がおやおやと思うのは、確かに日本語の表現は五十年経って変化を遂げ、そしてなお自己批判の対象であり続けてきた、ということである。

坂口安吾は「堕落論」(amazon)で、

武士道という武骨千万な法則は人間の弱点に対する防壁がその最大の意味であった。

と書いた。つまりもともと大した闘争心も敵愾心も持たぬ日本人を無理矢理にも組織的な戦いに駆り出すための方便として編み出されたのが「武士道」であるとし、古来日本人の精神の中枢に武士道が備わっている、という幻想をやっつけているのだ。同様に、貞操がどうのこうのというのも、性におおらかあるいはいい加減だった頃の風習からの反動として人工的に編み出された道義でしかないとも主張している。これらの指摘は、やはり安吾が「日本文化私観」に表わした次の一文にまとめることができるだろう。

伝統とか、国民性とよばれるものにも、時として、このような欺瞞が隠されている。およそ自分の性情にうらはらな習慣や伝統を、あたかも生来の希願のように背負わなければならないのである。

これに沿うならば、「芝生に入るべからず」だった頃も、「ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません、お詫びいたします」式の現在も、私達はそうした言葉を「自分の性情にうらはらな」ものとして振りかざしているのであって、自分の血肉を分けたものとしていないのだ。

しかしそうやって自分の身体から離れたところで言葉を振り回していると、かえってその中心が浮き上がって見えてしまうということもある。隠れて贈賄を受けた者は贈賄の罪をことさらに非難することがある。昨今よく見る「日本スゴイ」式言辞も、その対蹠地に中心がありはしないだろうか。

※なお、渡辺が発見した衛生条例について調べてみると、当時のパリの下水事情・トイレ事情がいろいろとわかって面白かった。詳しくは次の記事を参照されたい