「に」と「や」の間
朝顔や つるべ取られて もらい水
とは加賀千代女の句だが、若い頃はこの句を読んでも、日々の生活に欠かせぬ水場を朝顔ごときであきらめる筈がなく、机上の創作であり詠み手の心情の押しつけでしかないと決めつけていたのだけど、けさ顔を洗っているときにふと、あるいは千代女は朝の雑然とした時間に朝顔のつるを解くことを避け、後で時間があいたらゆっくり手をつけようと思ったのかもしれないなぁと思い浮かんだ。
真相はこの際どうでもよいのだが、こうやってふとした拍子に頭に浮かんできて、そのときそのときの状況によって受け止め方が変わっていくのが名句の面白いところであり、年をとることの愉しみの一つである。
余談だが、Wikipedia によれば、この句はもともと
朝顔に つるべ取られて もらい水
だったものを、後で「朝顔や」と詠み直したものだという。これが本当かどうかはわからないけど、たしかに「朝顔に」で記憶している人もいれば「朝顔や」と記憶している人もいるようだ。「に」と「や」の違いでだいぶ印象が変わるものだが、もし千代女本人が詠み直したのが本当だとするならば、「朝顔に」の無防備な直截さもあわせて後世に残ったことになんとなく面白みを感じてしまう。無理矢理のこじつけだけど、この句はそうして「朝顔に」と「朝顔や」が重なった状態で残ったものであり、味わう側の心境ひとつでどっちにも読みうるという「量子重ね合わせ」のような句なのではないだろうか。
ところでさらにどうでもいいけど、ノルウェー語では「はい (Ja)」と「いいえ (Nei)」のどちらでもないような曖昧な相槌の言葉として「ニャー (Nja)」というのがあるそうだ。
というわけで、これらすべてのネタを織り交ぜて一句。
大晦日 死んだふりする 匣の猫