詩と動画
雨の日の通勤途中、駐車場に咲いていた野花を見て、こんな句を思いついた。
紫陽花に負けん気見せる濡れ野花
この句に、その花の写真を添えてツイートしたのだったが、その後で、俳句に写真を添えるのはちょっと野暮かなーと思ったりもした。

俳句の理想を考えるならば、情景から余計なものを削いで十七字に落としこみ、また読み手がそこから想像する世界を邪魔しないことが望ましかろう。写真はそれに比べると余計な情報が多過ぎる。とはいえ、ヘボ俳句詠みである僕としては、言葉のみで情感まで伝えるだけの自信が持てないし、多少はその具体的な風景も共有したいのである。その上、写真の方にもちょっとした愛着が湧くからそっちもついでに見てよね、という気になっちゃうんだよね。
でも、写真はまだそうした詩情を持ちやすいように思う。対象をどんな構図で撮るか、どのタイミングで切り取るか。撮影した後のトリミングや後処理で何を削ぎ落とすかをあれこれ考える時に詩を宿す。これが動画だったらどうだろう。写真に比べると動画はさらに余計な情報量を抱え込むことになる。数秒の動画であっても、不必要なものを写しこまないように撮影するのは難しい。さらに、それを観る側は動画が再生されている間、否応なしに動画の時間にいっとき支配されることになる。俳句や詩に動画を添えるのは、写真に比べると蛇足をさらに増やすように思える。
昨今、Instagram に動画機能が追加され、さらには Vine や unda といった動画に関するサービスが増えてきているけど、これらが成功するためには、動画からどうやって余計な情報を削ぎ落とすか、が課題になっているように思われるのである。Instagram の限られた大きさ、限られた形による写真は、そこに詩情を挟みこませることに成功した。動画で同じことをやろうとするには、さらにもう一工夫二工夫が必要なのではないかと僕には写るのだ。
ところで、冒頭の句にはオチがあって、実はこの野花は夜に大きく花開くことを、次の日の夜に発見したのだった。

「野花」にこんな真実が隠れていたことは、句には情報として残されていなかった。写真つきにしておいたことで、一片のおかしみを宿すことができたともいえようか。