将棋幼年期の終り

先日のこと。近所の飲み屋でプロの将棋棋士の方と世間話をしていたとき、コンピュータ将棋の話になったんだけど、もうはっきりと「自分より強い」と言われていた。以前のコンピュータ将棋の力というものは、プロ棋士にとっては終盤の詰め手順のチェックくらいにしか使えなかったんだけど、いまや序中盤での検討のためのツールとして十分使用に耐えるものになっているらしい。

ただ、検討のツールとして考えると「感想戦ができない」という点を彼は残念がっていた。「感想戦」というのは、対局を終えた後に対局者どうしで勝負の過程を再現しながら着手についての意見を交換しその是非を検討するもので、いわば反省会。勝負が終われば、さっきの敵は今の友。あの時こう指さずにああ指すとどうなったのか、時には他の棋士も巻き込んでああだこうだと言いあったりする。

ところが、現在のコンピュータ将棋プログラムは、人間と一緒になって感想戦を行うことができない。少なくとも、人間にとってわかりやすく自分の思考過程を言い表したり、意見を交わして創発的な手をその場で編み出すこともできない。これが人間の棋士だったら極めて失礼な態度として批判されかねないのだが、しかし今の人工知能の技術では自然な感想戦を行わせるのはまだちょっと難しい。

これがコンピュータ同士であれば、それぞれの局面での評価値情報を交換したりすることは可能であろう。ひいてはそうした情報交換はお互いの思考アルゴリズムの向上に役立つ。しかし、人間相手に、人間にわかる言葉で自分の考えを開陳することはコンピュータにとってあまり役立つことはない。

この状況は、以前「コンピュータ囲碁について、王銘琬の危惧」で書いた、手筋の切り出しに関する議論の同工異曲だ。人間相手の感想戦を実装するには、人間らしい将棋・囲碁の概念をコンピュータ側が理解する必要がある。しかしコンピュータが人間を凌駕するようになると、それはいよいよ成立しにくくなる。人間の棋士は、コンピュータの提示した指し手の意味を理解することにその時間を費すようになっていくだろう。

コンピュータ将棋の力比べは、人間の最高峰棋士を負かしたところで一段落するだろう。その後は、いかに人間の「お相手」をするかに焦点が移る。そうしていよいよコンピュータ将棋に関する研究は、人間の知能というものに対して正面から取り組むことになる。コンピュータは、人間を慈しみ、ときに厳しく迫る将棋世界のオーバーロードとして君臨するのだ。