コンピュータ囲碁について、王銘琬の危惧

情報処理学会と電子情報通信学会との合同でのフォーラム「FIT 2008」における特別企画「コンピュータ囲碁最前線」では企画の最後に、プロ棋士の王 銘琬(メイエン)の他、ロボカップの松原先生、コンピュータ囲碁ソフトの開発者らが顔を揃えたパネル討論が開催された。私が会場に入った時にはすでに何人か喋った後だったものの、なかなか面白い話が聴けた。

中でも面白かったのは松原先生の話で、近年になって俄然注目されているモンテカルロ法は言わば不完全情報ゲームのためのアプローチであり、完全情報ゲームである囲碁に不完全情報ゲームのアプローチが有効だったのは、今の計算能力の前では、囲碁はあまりにも場合の数が膨大であるためほとんど不完全情報ゲームと同じように捉えるしかないということを意味しているのではないか、という内容。数学的な定義を与えて納得できる話ではないが、なんとなく感覚的にはそんな気もする。もっと多方面から意見を募ることで、この話題はもっと深められるような予感はある。

さらに輪をかけて面白かったのが、王九段のコメント。まず現状のコンピュータ囲碁の能力についてのコメントとして、「モンテカルロ法は凄い」を連発。多くの研究者や開発者は「モンテカルロ法だけでは強さに限界がある」といった常識的なコメントを発していたのに対し王は、モンテカルロ法の導入により、基礎的な筋力としては大変なものをすでに備えている、と述べている。この筋力をベースに、いろんな事を教えこんでいけば、プロの実力にすぐに追いつくだろうとまで発言。さらにはこれを称して、「アラレちゃんを前にした則巻センベエのような心境」と例えていた。つまり、凄まじいパワーはあるもののその使い方がこなれていないというアンバランスさを見ている訳だ。一方で、脅威のパワーを目の当たりにした驚きも表現されており、巷間よく言われるように、この人は話が実にうまい。

さて、そうした現状に対する感想を踏まえた上で、コンピュータ囲碁がトッププロ棋士に勝つ「Xデー」はいつ来るか、という問いに対して王は、Xデーがいつかという具体的な予測は避け、トッププロ棋士に勝てる囲碁ソフトが出現することよりも危惧しているのは、囲碁が「完全に解かれる」、つまり必勝法が発見されることにある、と述べた。それにより「人間が囲碁をやる意味が無くなってしまう」日が訪れることを恐れていたが、先の松原先生の話を受け、モンテカルロ法のような不完全情報ゲーム向けアプローチが今後もコンピュータ囲碁の中心的アルゴリズムになるというのであれば、完全に解かれるという点についての心配はなく、あったとしてもそれは遠い先の話であると感じた、とのこと。そして、完全に解かれることがない限り、例え人間のトッププロがコンピュータに勝てなくなったとしても、人間が囲碁をやる意味は無くならないと答えた。

しかし、これは本当にそうなのだろうか。これはあくまでも仮の話だが、人間の研究者・開発者が介入することなくコンピュータ囲碁が強くなり続けることができるようになったとしよう。いや実際、評価関数のパラメタチューニングなどはすでに人手を離れており、コンピュータ同士が対戦することで、限界はあるもののどんどん強くなっていける。そうして、人間はもはや太刀打ちできなくなり、コンピュータ同士で際限なく強くなっていったとしたら、何が起きるか。

たとえば新しい手筋がコンピュータによって発見されるだろうか。おそらく否だろう。現状コンピュータは「手筋」という概念はほとんど持っていないに等しい。手筋というのは実に人間らしい思考法なのだ。手筋に頼ることで、人間は思考量を節約している。しかしコンピュータにはそんな節約はほとんど必要ないから、一連の石の進行を「手筋」として切り出す必要がないのだ。

ということは、だ。人間が追いつかない程強くなったコンピュータから、その強さを支えている「知識」を直接的に引っ張り出してそれを人間が理解して取り込むということが、できないかもしれないのだ。少なくとも現状、コンピュータはその着想を言葉やデータにして人間にそれを提示する術を持たない。人間に唯一残されたやり方は、コンピュータ同士の対戦棋譜を並べて、そこからコンピュータの考えを推測したり新しい手筋を発見したりという、間接的な学習しかない。つまり遠い未来、人間にとっての囲碁はさながら考古学や文芸評論のように、資料からそれが何であるかを推測し読み解く事のみが課題となるのかもしれない。

『あなたの人生の物語』
テッド・チャン著
(ハヤカワ文庫SF)

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これと良く似た状況が、テッド・チャンが Nature に書いたショートショート「The Evolution of Human Science (人類科学の進化)」に描かれている (『あなたの人生の物語』に所収)。こちらでは科学の研究が超人類によって人間の理解を超える水準でなされており、人類はその成果を単に利用するだけか、超人類の研究内容をリバースエンジニアリングしてそれを学ぶしかできなくなってしまった世界の話だ。成果が利用できるのだからそれを有り難く使っていればいいではないかという一方で、人類の知的水準は引き続き高めて行かねばならない、それによりいつかは人類の知性が超人類を上回り、かつての地位を回復するだろうという願望の元、超人類科学の解釈が進められている背景が語られている。

人類の知的水準を隔絶的に上回る存在が現われたとき、人類はどう対処していけばよいのか。その時のことを考えると、どうしてもやっぱり暗い気持ちになるのを止めることができない。幸いというべきか、現状考えられているような人工頭脳の仕組みでは、先に挙げた例で言えば評価関数のパラメタを自力で向上させることはできても、評価関数という仕組み自体を別のものに置き換えるといった改善を自力で行うことはできない。科学分野においても、決められた公理系内で様々な証明を探索発見するような機構は作れるかもしれないが、公理そのものを定めるような、ペンローズに言わせれば非計算的な創造性を発揮できるような仕組みが作れるかどうかは、定かではない。少なくとも当分作れるアテはない。

追記: このフォーラムでのことを王九段ご本人がブログに書いておられていた(左記リンク切れのため、WaybackMachineに保存されているものを参照)(2016.3.15)。

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